2020.12.18追記

函館毎日新聞より「柳川熊吉翁語り残し」一~二十について

熊吉翁の声が聞こえてくる

デジタル化の作業担当 碧血会会員 福島 誠

 以下は函館毎日新聞 大正元年10月31日~11月20日に連載された「柳川熊吉翁」という聞き書きのWEB化です。(18回のみ図書館所蔵なく欠号。東大明治新聞雑誌文庫にも所蔵されておりません)

 ★以下、新聞掲載時の原文を、新漢字、新かなづかいに変えて復刻しました。特殊な読みの漢字もなるべく生かすようにしていますが、一部にまだ読めてないものも残っています。
 ★110年前の新聞記事ですので、現代では使わないような人権上の配慮のない表現や描写が出てきますが歴史的読み物としてご理解ください。
 ★特に第二回の「吉原の大火」では凄惨な描写があります。気の弱い方はそこを飛ばしてください。
 ★函館市中央図書館所蔵資料からデジタル化しました。


柳川熊吉翁 語り残し「一」

△波瀾の多い生涯

函館の守護神が鎮座ましまして、桃源郷とうたわれて居る谷地頭に、更科蕎麦の元祖たる柳川亭のある事は、人のあまねく知る所であろう。同亭の老主熊吉翁は、蕎麦屋の元祖としてよりも、侠客きょうかくとして知られた八十余年間の、波瀾に富んだ生涯は、単に面白いというばかりでなく、当時の世相人事を知るの参考ともなり、殊に函館戦争に参加した実歴などは、好個の史料であるから、翁が八十余年間の奮闘史を紹介しましょう。翁、今年こんねん八十七歳の高齢であるが矍鑠かくしゃくとしてもうせず、耳は稍々やや遠いが言語は明らかであるから、此の記事につきて錯誤があると思ったら直ちに注告されたい。記者は直接翁に就いてその実否をただし、諸君の厚意を無にせざるように努力すべきを約して置きます。(一記者)

△始めて福山に来た

翁は今年八十七歳であるから、文政九の戌の年生れである。その時は松前家は恰度ちょうど十四代章廣公あきひろこうの治世で、一度は梁川やながわに封を移されたが、文政四年にふたたび蝦夷地を領するの幕命を受けて、外患の警備に急なる時であったから、松前家の藩士は旧封に復することが出来て、愁雲しゅううんにわかにかき消え、桃李一時に開いたような賑わいとなったけれども露国の来寇の為に北天常に暗澹として安き心とてはなかった。為に十五代良廣公よしひろこう、十六代昌廣公まさひろこうの時代は、何れも黒船騒動の為に悩まされて、藩政といえば北辺防備の外にはないような有様であった。ことに昌廣公の末年には、水戸藩より使者が来て、樺太島を借らんと申込み、松前藩の老臣等殆どその返答にくるしんで、遂に城を桔梗野ききょうのの移さんと唱えたものがあった。其の説は衆議の決するところとなって、愈々いよいよ城を移す事となり、江戸の金物の註文をなした。その時熊吉翁は江戸花川戸えどはなかわとに在って鍛冶屋に奉公して居ったが、翁の主人は赤金あかがねを註文を引き受けたので、れを福山に送る荷物頭にもつがしらすなわち采配する人の下役になって、月余の長途を旅行して三厩から福山の城下に渡ったのはそもそも翁が北海道の土の踏みめである。それはちょうど翁の二十一歳 弘化三年午の歳であった。然るに福山に着いた所が、藩主が移城の事を憤って「吾は四百年来の祖業を享け北門の鎖鑰ほくもんのさやくを守り居るのに、班位の等差とうさこそあれ同じく諸侯であるのに、水戸候なればとて、私に封境を借すの理あらんや 強いて望むとならば、水戸全国と夷地全島と交換すべし」といきまいたので、国老も縮み上がって、遂に桔梗野の城は立ち消えとなった。翁等は築城せば何か仕事に有りつくつもりであったろうが、このような始末にて沙汰止みとなったから、止むを得ず渋々ながら江戸に帰った。

柳川熊吉翁 語り残し「二」

△大地震と大火

折角金儲けのつるにありつこうと思って、遥々はるばる、花のお江戸から熊の棲という恐ろしい蝦夷が島は福山の城下まで渡って来たが、的事あてごとはすっかり向こうから外れて、城を移すことは沙汰止みとなった。が、約束したあかがねだけは松前公が引き受ける事になったから十分な手当を貰って、再び江戸に戻ったが、翁の生まれ場所は鯔背いなせで売った花川戸であったから、見よう見まねで、本職は鍛冶屋でありながら賭博の腕ばかり鍛えて、知らず知らず日蔭の南五味子さねかづらとなった。 斯くして四五年を暮らしている間に、江戸の大地震に逢って、吉原の平野屋の借家に居ったが、弱り目に祟り目のたとえの如く、地震の混雑が片付かぬ内に、吉原の大火と来た、其の時の惨憺たる有様は、今想いだしてもりつとする位で、遊女の焼死したものは何百人あったか知れぬ。其の時代では吉原が焼けると馬道町うまみちちょうに八カ月間の仮宅を許す定めになって居ったが、地震と家事との騒ぎであったから、特別を以て五百日間の仮宅営業を許す事になったのでも、並大抵の混雑でなかったことは知れる。

△臨時隠亡おんぼうとなる

吉原の焼跡を片付けるために沢山の人夫は入込んだが、二三百人の女郎の屍骸しがい彼方此方あちらこちらに散らばって、手の付けようも何もない。中には焼け切れないで腹綿はらわたが出て居ったり、頭が潰れたり、手足が折れたり、生々しい女の屍骸と来て居るから、薄気味わるくて実際二目ふためと見られたものでなかった。そこで家主から頼まれて、此の半焼の女郎等じょろうどもを火葬することになったが誰手だって好い気持ちはしない。只だ一人を焼けば一分二朱というかねの威光に依るのだから、引受けるには引受けたが、面倒臭いからかぎを屍体に引っかけて、大道を引擦りながら廓内の隅に寄せ集め、十人も二十人も一所に積み重ね、うえに薪を載せて掻き散しながら焼いたのだから、誰の死体やら誰の骨やら知れるものではなかった。

所払ところばらいを喰った

自分ながら乱暴とは思ったが、実際、金が欲しかったので、そんな事は少しも考えずに、彼れ是れ百人も焼いたろう。所が其の焼方は余り酷い、犬猫の屍骸でも自分の飼ったものなら、斯くは粗末になるものでないという議論がやかましくなって来て、女郎の親方連は揃って来て「誰れに断って自分うちの女供を焼いた・・・」などと烈しい談判は来た。一通りの言訳いいわけはしたが、実際遣り方はひどかったので、町内の役員などにも知れ渡り、うとう所払いという浮き目に遭った。併し其の時は別に妻子などの手足纏てあしまといがなかったから気軽なもので、隠亡して得た金は百両ばかりあったから、夫れに元気を得て、浮浪人となった。

柳川熊吉翁 語り残し「三」

女衒ぜげんに救わる

所払いを喰って居所にまごついて居た所が其の時同じ町内に女衒の新兵衛というものがあって、その人が口を利いて呉れて漸く許されたが、此の新兵衛の娘にお菊と言って、夫れはそれは美しい女があった。所が松戸から来た大尽だいじんとばかりで名も知らないが服装みなりをして金放れもよく如何いかにも大金持ちの旦那のように見えたので、新兵衛も欲からその大尽を手に入れようと思って娘のお菊をおとりに使った所が中々調子がうまくいったので新兵衛喜ぶこと並々ならず、何ややとでご機嫌を取って居た。

△貸長屋の相談

大尽というのが、新兵衛の腹の底を充分読んで居るので、大威張おおいばりに娘を自由にして首尾は上々であったろう。其の内に俺等おいらとも知己しりあいになったが、新兵衛の口から大尽の資本かねで貸長屋を建てるという相談があった。夫れは花川戸の助六屋敷が其の時戸沢助六という人の持物で広い地面であったから其処に長屋を建てるならば大した儲けになるのは判り切って居る。そこで其の大尽とも相談して、いよいよ建てる事に極まり俺と専蔵と二人で支配の栄蔵という人に、土地の借用を申し込んだ。

△マンマと喰わされた

所が栄蔵という人のいうには、お前を馬鹿にして言うではないが、あの広い地面に家を建てるとすれば二千や三千の金はなくてはならないよ、お前等が夫れが承知ならば貸してやるサと、頭から馬鹿にされたような風であったから、俺等も厄鬼やっきとなって歴として旦那が付いて居るから二千五千の金は訳はありませんから是非貸して呉れと言うと、そういう約束でもあれば貸すが、能く確かめねばならぬものだよと子供に言付けるような口振りであった。それでも承諾して呉れたから喜んで戻って、其の事を大尽に話すと、そんなら材木屋に行って材木の二千石も註文したがよかろうと言ったから、夫れを注文するには千両位の手金を入れなければ、何処でも承諾する所はあるまいから、千両位出して下さいと言うと、お前等は百両ずつも出して、兎に角手金を入れて置けと言われたが、専蔵にも俺にも百両などのまとまった金の有ろう筈はないのだ。

△化けの皮は剥げた

其の言分いいぶんすこぶしゃくに障ってならず、金を出すかられて来いと言って居ながら、俺等おいらに百両ずつ出せとは何の事だ、人を馬鹿にするも程がある、百両程の金があるなら誰れが貴様らに使われるものかといきまいて専蔵は大尽の所に談判に出懸けた。手金てきんがなければないでよい、俺等おいらの顔を立てて呉れと持込んで、果ては大喧嘩となったが聞けばポンポ師といって、今の三百さんびゃくのようなものだという事は知れたので、開いた口が塞がらず、オヤオヤと此方こちらからげたが新兵衛こそいい馬鹿を見たものサ。

柳川熊吉翁 語り残し「四」

新門辰五郎しんもんたつごろうすが

キンポ師にだまされた事が判って、喧嘩はしたが相手が相手だから、此方から手を引いて後の始末を考えた。栄蔵の所へはだまされたとも言えぬから、専蔵と二人で頭をあつめて相談した結果、新門の親分に頼むことになった。其の時浅草観音の裏の所に居た新門を訪ねて、キンポ師に引っかかった事を話、今は引くに引かれぬ場合になったから助けて呉れと言った所が、新門も大いに同情して呉れて、そんなら俺が長屋を建ててやるから、お前等は借れる人を心配して直ぐ塞げるように骨を折れとの事であったから、私等も安心して居て新門の親分は芝の市兵衛町にイナゲ長屋があって、其処の店頭たながしらをしておる専太郎というものに世話して呉れた。

△再び破綻となる

専太郎は店頭たながしらであるが、吉原に貸座敷かしざしきを持って可なり顔の売れた人であった。新門から声がかって専太郎を訪ねた所が、専太郎もさっそく相談に乗って呉れて、一戸一日四〇〇文ずつに貸すという事に極めて、いよいよ普請にかかった。一文無しの事であるから随分骨が折れたが、如何にか工面して大工に幾らか手金を入れて兎に角着手したので俺等もおおいに喜んで早く出来て呉れれば儲けることは出来ると思って、毎日毎日普請場に詰めて急がして居った所が、専太郎から組合から脱けると断りの手紙が来た。其の言分いいぶんには一日四百文に貸すより二百五十文に貸す所はある、其方そっちは自分に取って利益であるからお前等の方は断るとの事であった。吃驚びっくりしたじゃないか、専太郎は組合から出れば、金主はないから工事をやめねばならぬ、是迄の苦心は水の泡になって仕舞うから残念で溜らず、専蔵と二人で専太郎の所に談判に出掛けた。

△専太郎を縛った

おおいに憤慨して専太郎の所に行き、文字も知らない我々に手紙をよこして組合から脱けるとはどんな了見か、と啖呵を切り始めてたが向こうは我々よりは顔が大きいので4百よりも二百五十の方は安いから断ったのだ、文句があれば勝手にすれと、テンデ相手にならない。此方も癪に障らァ、見損ねなとばかり、ポカリ一つ喰わしたから溜まらない、三人入り乱れて喧嘩であるが、わしは若いときには力があったから滅多には負けることはない。其れに専太郎一人に二人かかりだ。力で押しして、縄で縛ってしまった。サァ此の始末を付けて呉れねば、此の通りだと柱にくくって坐り込んだ。

△危ない瀬戸際

専太郎が縛られたということは聞こえたものだから、専太郎の乾児こぶん等は、寄るはよるは百人ほどもあったろうか、此方もそうなれば破れ被れやぶれかぶれである。敷居一寸でも這入はいれば、専太郎を踏み殺すぞと怒鳴り付けるので乾児こぶん等も家には這入れず、俺等わしら遠巻とおまきにして吉原からは生かして還さぬと力味りきんで居るので俺等も薄気味が悪くなって来た。実に危ぶない瀬戸際と来て居る。

柳川熊吉翁 語り残し「五」

△往来止めの大騒ぎ

専太郎の家に喧嘩があるという事は、夫れから夫れへ伝わって、乾児こぶんは駆け付けて来る、野次馬は出て来る、場所は場所であるから往来に人波を寄せて、交通止めという騒ぎ、広い場所に出ての喧嘩なれば専太郎には沢山の乾児こぶんがあるから俺等わしらはとても及ぶものでないが、咄嗟とっさの出来事であったからうまく縛り付けた。併しこんな騒ぎになった上は、一寸ちょっとでも戸外に出るとられるから、強そうな事を言って、専太郎の不埒ふらちののしって居るものの、その実は専太郎の傍を離れると危ないから自分の身を衛るための窮策きゅうさくであった。

△殺すか殺さるるか

こんなに騒ぎが大きくなると、其の結局は如何なるものかと、自分ながらも心配になって来た。設令たとえ殺されるとて専太郎は我々に降参するものでない事は判って居るし、我々から縄を解いて謝罪わびするとすれば、専太郎も乾児こぶんも承知するものでないし、向うを殺すか殺さるるか二つに一つを選ばねばならぬ破目となった。専太郎を殺せば俺等わしら二人もやらるるし、専太郎を放せば俺等わしら二人だけやられるのも意生地いくじがないようである。どうせ殺られる事なら、冥土の道連れに専太郎をも伴れて行こうかしらと口には言わねど、二人の顔にはちゃんと読まれて居る。

△地獄で仏の思い

往来はワアワアと騒いで居るが、家では三人きりの押し問答、何時果いつはつべしとは思われない。其の時、群衆を押分けてご免なさいと入って来た者はあった。乾児こぶんでないかと思ってじっと眺めると、着流しのままで別に喧嘩の加勢とも見わないから、別にとがめもしなかったが、会釈しながら俺等わしらの傍に坐って「わしは紀の字屋という小店のものであるが、此の喧嘩は私に預けて呉れまいか 屹度きっとお主等の顔を立てるから・・・」 との事である。俺等わしらも後始末に困って居った時であるし「顔を立てて呉れるなら、好きな喧嘩でもない・・・」 とて、専太郎の縄を解いてやった。専太郎よりも此方こっちでは地獄で仏に逢ったような心地がしてく来てくれたと心の中で紀の字屋を拝んだ。

△初一念を通した

紀の字屋というのは、吉原で小さな貸座敷をやって居るが、人間はしっかりして、言う事は能く理解わかって居る。此度の喧嘩の原因を聞いて、それは実に気の毒である。専太郎の代わりにわしは加入して、お主等の初一念を通うさせるから安心すれとの立派な扱い方であった。俺等わしらは之れで何の不足も有ろう筈がなく、夫れでは頼むというて無事に分かれた。紀の字屋の今度の扱方は実に立派なもんだという評判はバット高くなって、借家する人だちは紀の字屋の長屋に行けというような人気で、建物は出来上がるとすぐに片っ端からドンドン借人かりてがあって残らずふさがって仕舞った。

柳川熊吉翁語り残し「六」

△仕出屋の開業

いろいろ心配したが、紀の字屋の力で長屋は出来たから紀の字屋に店頭たながしらになって貰った所が、非常な人気で、直ぐにたなが塞がってしまって、今迄は淋しい原であったが一通り町の形になったので、俺も専蔵と相談して台屋だいやを始めた。俺はうちで料理の方を引受け、専蔵は外の出前とか取立とかを引受けて、二人で懸命に働いたので、大層繁昌するようになった。そうなると人間というものは情けないもので、油断が出て来るものである。

△賭博で失敗する

わしは元来賭博が好きで、夫れで好いこともあったが、先づ悪い方は多かった。台屋だいやも少し繁盛するようになった所で、好きな賭博の虫が頭をもたげて堪え切れない、二進にっち三進さっちも利かぬ時なら、斯うしても居られぬと自分の心を制止むることも出来たであろうが兎に角、今日明日に困らぬようになったから、一寸位はという心の油断から、一度は二度三度五度と足繫く賭場に出入りするようになっては、料理などは五月蠅うるさくて遣って居れず、雇人等に任せて仕事になまけたから、紀の字屋には信用を失い、得意は漸々だんだん減って左前になって来た。

△家業盛り返しの策

是れでは行かぬと始めて気が付いて、専蔵とも相談した。こんなに信用を無くした上は少しばかり勉強したとて、盛り返しは付くものでない、ズッと目立った事をせねばならない。それをするには我々の痩腕ばかりでは如何にもならぬ、それには新門の親分より頼る所はないが、親分に取り入る方法はないかと、いろいろ相談した所が、幸いにも巧いことを考えだした。

△嫁の取持で縋る

専蔵の姉は、其の時或る旗本の妾であった。旗本との間に出来た娘に、お安という綺麗なのがあって、それは岡引の頭、久蔵というものの世話で、常磐津の師匠の息子の安太郎に片付く事に極まって居た。其の安太郎というのは今でも十一代目の師匠となって、未だ生きて居るとの事であるが、専蔵はお安の叔父であるから背に腹は代えられず安太郎の方の縁談を断って、新門の三男元吉に世話した。新門には長男仁三郎、二男松太郎と此の元吉と三人あったが、評判娘のお安を遣ったので親分も大喜びであったし、行ったお安も、其の時は清元に圧倒されて生活向くらしむきの充分でない常磐津の息子に嫁くよりは仕合せであった。

△嫁の恨みで破滅

専蔵もわしも思う通りに出来て大喜び、新門の方でも良い嫁を世話して呉れたとて大喜び、殊に専蔵は新門と縁族という間柄になったので、別に斯うして呉れと頼まぬ内からお客はボチボチ殖えて来て、店は忙しくなって来た。之れで世間が円く行くものなら結構なものだが、中々そんなものではない。此方は大喜びであるが、嫁を横取された安太郎の方を思えば、どんなに口惜しかろう。又、なこうどした久蔵の無念はどんなであったろう、無理はない。久蔵は岡引の頭を笠に着て遂々とうとう俺等わしら二人を附け廻し、専蔵は伊豆の新島に流罪になったし、わしは辛くも江戸を逃げて、北海道まで来るようになった。当時の事を想い起こせば、久蔵の遣り方はあんまりだと腹立たしい事もあるが、 俺等わしらのやり方も随分過ぎてあったからね。誰を恨むでもない。先ず一服して、流罪や逃亡した顛末を話しましょう。

柳川熊吉翁語り残し「七」

△岡ッ引き久蔵の悪辣

娘を横取りされた恨みで、岡ッ引き頭久蔵は専蔵を憎むこと一方ならず、何か機会があらばと、狙っておった所が、新門の縁族で売り出した台屋の繁盛は非常な勢であったから、多少の無理もあったろうが、科という程の科でもなかったのを、平素から悪まれておるから、押売というで大番屋にて呼ばれて調べを受けた。

△逃走したとの冤罪

併し押売という罪名だけでは、重い仕置にもならないが、聞くも恐ろしい白洲破しらすやぶりという冤罪を被ったのである。専蔵は別に逃げたのでも何でもないが、久蔵がそうこしらえたので。如何いう訳かというと専蔵は一応の取調が済んで、白洲に控えておると、傍に付いていた岡ッ引きの久蔵は、後から専蔵の尻の所を突いたから、専蔵は御用が済んで帰れということだと思って、ツト立って白洲を出かけると、久蔵は声高く白洲破りだと大喝たいかつして、手先の者に否応なしに縛らせた。

△専蔵新島に流罪

専蔵も吃驚びっくりして、種々いろいろ弁疏いいわけをしたけれども初めから久蔵が仕組んだことだから、罪を免れることは出来ないで遂うとう白洲破りというかどで、伊豆の新島に流罪るざいされた。 なんと乱暴なことではないか、今の有りがたい御代でも、役人等は無理なことをするとのことであるが、今から四五十年もことであるから仕方がなかった。専蔵は見し見し無い罪を着せられて七八年も配所の月に泣き暮らしたが、御維新後に特赦されて、新島から江戸に帰り、今でも確か生存しておる筈である。

△酒の株を奪わる

斯うなっては台屋の商売も面白くなくなったから、紀の字屋に頼んで酒屋を始めた。幸いにもこれも相当に売れてあったが、其の時、新門の乾児こぶん辰浪たつなみという博徒があって佃島に苦役くえきしておった。これがけんは名人であったが、佃島から帰って来ても、是れぞという職業がなかったので、新門に泣き付いたと見え、酒屋の株を辰浪にやれという吩言いいつけである。無理なとは思ったが、新門の親分には何か外に考えもあろうと思い、諦めて辰浪に其の株を渡した。

△辰浪との喧嘩

一旦は諦めたが、辰浪の仕振りは横柄である。一応の挨拶どころか、当然あたりまえのような面付つらつきをしておるので、しゃくに障ってならず、或る日、酒に勢を借って辰浪の所に苦情を持ち込んだ。始めから売りに行った喧嘩だもの。何で黙っていましょう。忽ち修羅場しゅらじょうとなって血は流さぬが、力自慢のわしは十分に暴ばれたので、戸障子や道具の毀されたことは、実に惨めなものであった。

△朝湯の帰りを

散々暴ばれてから、独り身の気軽さは其のまま友達の所で泊まり、知らぬ顔に澄ましておったが辰浪の遣ろう、素人臭く強請ゆすりうったえをしたと見えて、褞袍どてらのままで朝湯からブラリ出ると、手先が二人待っておって居れの二三間行き過ぎた後ろから「オイオイ熊ァ、一寸待てッ」と声を懸けられた。

柳川熊吉翁語り残し「八」

△捕まっては百年目

喧嘩はしたものの、昨夜ゆうべくらいのものは、毎晩あるので、正可まさか手先などを向けられることはあるまいと思っていたから、「わしのことかね・・・」と振返る間もあらせず、二人の手先は素早く左右の袖を捉えて「ひまは取らせぬから一寸大番屋おおばんやまで来て呉れ」とのこと。 扨ては辰浪奴たつなみめ 水臭く訴えたのだなと気が付いた。今此処で手向いしても逃げ場はないし、といって大番屋まで行けば、例の久蔵の野郎が居るから、んな酷い目に遭うかも知れない。隙を見て逃げてやろうと思いながら、二人に連れられて来た。

△濠の中に飛び込む

手先二人位投げ付けることは何でもないが逃げ場は悪ければ直ぐ択まるばかりであるから、彼れか是れかと考えながらいて来ると、或る河岸かしに出た。此処が屈竟くっきょうの逃場所であるから、二人の択まっていた褞袍をスルリ脱ぎ棄てて、行きなり濠の中に飛び込んだ。二人の周章方あわてかたはなかったであろうが、逃げたわしも、実は夢中であってくも思い切ったことをしたものだとは今でも忘れない。

△魚屋の戸棚に潜む

其の時、雷門と今の警察署との間に目白の不動尊があって、其の側に魚屋の喜助というものがあった。喜助の家というのは別に妻子はなく、って来た魚を買って来て、夫れを洗って売りに出れば、空家同様になって居るのを知って居るから、隠れるには屈竟くっきょうの所であるが、何をするにも裸体はだかままでは、人目に立ちて動けず、いろいろ苦しんでどうにかこうにかとがめられもしないで、喜助の家に行く事は出来た。案の如く喜助は居なかった。着物を借るる訳には行かず、裸体はだかで居れば、若しや来客などのあった時に、見咎みとがめられるし、窮屈ながら戸棚の中に隠れようと思ってあわてて飛び込んだ。

△戸棚の中の悲鳴

真暗な戸棚の中、何者がいるか知る由もなく、只だ追手の来ることばかり、恐れていたわしは成るべく奥の方にと思って冷たい手で探ったが、南瓜のようなものに触ったかと思うと「アレー・・・・」と悲鳴したのは確に女の声、続いて「何者だッ」と男の声が聞こえたので、俺は直ぐに合点して「此の不埒者奴ふらちものめッ」とおどかしてやった。所が女は「何卒どうぞ、許して下さい・・・・」というので此方は急に強がって、兎に角とにかく出て来いと引っ張り出した。

△姦夫姦婦を脅迫す

出たのを見ると、身体は人すぐれた相撲取で女は何処かの神さんらしい。凄い文句を並べた所で、全く某力士と人の妻との密会だと白状した。俺は此の場合密会などに要はないが、着物と旅費がなくては高飛することは出来ない。人と喧嘩して来て、川筋から逃げて来たのだから、着物を貸せと脅かし付けた。出すには出したが、力士の着物であるから、俺の身体には合わない。併し今は恰好などを言うて居る場合でないから、其の力士の着物を着、旅費を少し貰って、其の夜水戸街道の松戸まで逃げ延びた。馬鹿を見たのは、此の男女ふたり、折角のお楽しみを妨げられて・・・。

柳川熊吉翁語り残し「九」

△一文なしで登楼

少しばかりの旅費を貰ったが、真昼間は大手を振って歩けぬ扮装なりであるから、居酒屋などでわざと日を暮らし、ものの文色あいろは見ゆるか見えぬかという頃に、松戸の町に入ったその時は文なしの素寒貧すかんぴん、宿屋に泊るには格好は悪いし、まさか野宿でもあるまい。死地に入って生きる瀬もありだ、成るより成らぬものとは昔からのたとえままよとばかり女郎屋に登って、鱈腹たらふく食って呑んで、胸を撫でおろしていた。

△孔明以上の妙計

朝湯帰りに、水まで潜って、ならぬ裸体の道中もした上に、戸棚の中で俺等わしらに禁物の芝居も見せられて、何て間が悪い事ばかりとこぼしながら、女郎屋に登ったまでは好いが、朝になっての勘定は如何どうしたものかと思うと、暖かい布団の中でも夢は結ばれない。逃げようと思えば逃げられないこともないが、逃げると明日から宿なしだ。泥棒も出来ぬし、乞食も出来ぬとすれば、ひもじい思いをせねばならぬ。一文なしの癖に、ゆっくり寝ても見たいし、宿なしにもなりたくない。随分虫の好すぎる話、神算奇計、勝を千里の外に決するという諸葛孔明にも、此の分別はと面倒であろうが、其処は死地に入って生を求むるで、此方のお手の内はこんなものだ。

△ 何も蚊も上首尾

翌日になると、果たして番頭さんから、手詰の談判、参りましたナと腹の中では北叟笑ほくそえみをしておるが、表面うわべには出されもせず、さも神妙らしく小さくなって「実は仲間の者に持ち逃げされて困っておる。金の代わりに此のからだを使って呉れ・・・」と下手に出ると、夫れは気の毒の事である。そんなら只という訳には行かぬから、日に二朱ずつ出すから働いて呉れとの頼み、何方が頼んだのか分からぬ位の上々首尾。女の手前には少々バツが悪かったが、其の位はと辛抱して四五十日もおったから、女郎屋の内幕も分かって来た。是なら何処へ行っても、飯の食いはぐれはあるまいと、太々しくなって稲吉という町に逃げて行って、其の町の女郎屋に前のような手段で働くようになり、夫れから相馬中村の伊勢屋という女郎屋の番頭になることに決まっていた。

△不思議な人の運

人の運命というものは不思議なもので、何時いつどんなに変化するものか、自分のからだで自分も解らぬものである。殊に俺等わしらうに今日は東に、明日は西にと流れ歩く風浪ふうろうのものほど変化はげしいものはない。わしは十年ばかり前に一度松前に来た事がある。夫れは前に書いた通りである。其の時から松前は好い所、金の儲かる所と思って居た。行きたい行きたいと思って居るが、三十日もかかるので到底望みはないと諦めて居った所が、相馬で端なくも、松前に渡る手蔓てづるを見付けたのでもとの考えは勃々むらむらと起こってきて、何も蚊も更置さておいて、松前に渡ることとなった。

柳川熊吉翁語り残し 「十」

△奉行のブランさん

松前に渡りたいという希望の遂げらるるようになったのは、函館奉行のお伴が出来たのである。其の時は函館奉行というのに二人あって、独りは江戸に一人は函館に在って、一年毎に更代こうだいするのであった。江戸の奉行が函館に来れば、函館に居った奉行は蝦夷地を一巡して江戸に帰って行くのである。わしの中村に流れ込んだ時には、竹内保徳さんは江戸から下るのであったが、其の組頭に奥村という人があって、其の人に頼んでお伴に加えて貰った。お伴といっても別に家来という程ではないが、言わば荷物の人足である。人足ならば組頭の一存で出来る事であるから、それになれば別に銭を貰わぬが、三度の食事と宿には困らぬ。如何かして松前まで渡ったならば何とかなるだろうという考えで、肩代わりの人足となった。人足といえば聞こえが悪いが当時はブランさんといってあった。

△茶代はお客が取る

竹内様の行列に加ってから、道中何も心配なことはなかった。面白可笑しい旅までは行かないが、気楽なものであった。宿屋などで泊まると、一行三十人とか四十人とか引っ括ひっくるめて勘定するが、組頭くみがしらなどになると其の中から茶代ちゃだいを貰うよといって、幾干いくら掻っ浚かっさらうものである。何処どこの世界に、自分で払いをしながら茶代を此方から貰うという法はあるものでない。併し当時の幕吏の下役などは、皆こんな風だった。

△盛岡にて金儲の口

ブランさんになって盛岡まで来ると、好い金儲かねもうけの口があった。夫れは盛岡の殿様は余程のハイカラと見えて、盛岡城下の人々の詞を江戸弁に直して仕舞いたいというので江戸ッ子を十五人抱えたいとの事であった。給料は当時のお金で八両というのであるから、こんな甘いうまい口はあるものでない。わしも目前にある八両の月給が欲しいから、竹内さまのブランさんをやめて南部様の抱えとなった。仕事は楽であるし、金はあるから、身持ちを謹んで居れるものはない。十五人の抱人かかえにんは揃いも揃って酒色に身を持ち崩した。

△南部弁にせらる

遊ぶ人々は女の歓心を買うために南部の言葉を真似して毎夜遊ぶにいく。江戸の言葉は段々南部言葉にって来た。それでは殿様の考えとは全く違う。始めの月給一月分は十五人とも貰ったが、其の次からは月給を呉れない。只わしばかりは約束通りに貰った。其の訳は、わしは賭博が好きで、三度の飯を一度にしても打ちたい方であったから、何処かに良い賭場がないかと、夫ればかり詮議して居って、余り女などには近づかないから、言葉は崩れなかったからである。斯くして四五ケ月は盛岡に居ったろうが、其間には随分珍しい話もあった。所変われば品変わるで、今でも吹き出すようなことを二つ三つ話してみようか。

柳川熊吉翁語り残し「十一」

鶏卵湯たまごゆれる

其の時の南部公は、誰方でしたかお名前は知りませんが、国の言葉を江戸弁に直したいというお考えの方でしたから、頗るハイカラな殿様に違いなかった。独り言葉を直したいと思ったばかりでなく、今日こんにちでいう所の人種改良じんしゅかいりょうのお考えもあったと見えて、強い人民を造りたいというので、城下の何十軒とある湯屋には毎朝鶏卵たまご拾個づつをいて湯にれることを厳命した。其の趣意は卵湯にいれば身体は丈夫になった、其の人々から生まれた子供は、更に立派な体格になるということである。随分突飛なお考えであるが、卵湯としては何等の効能ききめもありますまいが、確かに南部藩の人々をして、体育に気をけさせたことと思います。南部様の家来に立派な方々の多く出来たのは、こんな子供の戯事いたづらごとにでも、其の精神の程はしのばれる。

△キンセイ様の奇習

南部領に限ったという訳でもあるまいが兎に角南部領で始めて見た異体の神サマがある。それは男根の形を刻んで、村々では必ずほこらを建てて、之を拝まねばならぬ奇習である。其の大なる物に至っては、六尺以上もあって金粉を塗ったり、金襴の幕を張ったり、実に尊厳にして犯すべからずといったような風である。鰯の頭も信心柄とやらで、有りがたい尊いと思って拝んで居たならば、他から見るように滑稽でもあるまい。ご承知の如く、鹿角郡かづのぐん羽後うご陸奥むつとの間に介在して、其の風俗言語などは秋田と津軽に類似するものは多きにかかわらずキンセイ様の崇拝だけは此の二藩に似ないで盛んであった。これは人民自然の欲求でなく南部公の奨励したものだと思う。

▲この奇習の原因

に就きては少しく、記者の意見をも附記して見たい。すなわち洋の東西を問わず、未開野蛮の民族には男根を崇拝した時代のあったことは事実である。記者の私考に依ればアイヌ細工の紋様は、男根の彫刻から起源したものだと思って居るが、ここに記述する必要はない。女家業の者は今でも安置する奇習があるそうだ。して見ると男根の崇拝は南部藩で始めたものでないことは知れるが、南部藩に境を接した津軽、秋田に大なる流行を見ずして南部領ばかりに多いというのは、南部公は敵国に対する政策として強健なる男子を生産養成の目的の為めに、特に之れが崇拝を奨励したものと見える。決して淫行の為めではない。前に卵湯に浴れたという趣意から考えても、キンセイ様の国内に鎮座ましますを公許した理由は始めて合点が行くようである。

柳川熊吉翁語り残し「十二」

▲姫君の心機一転

卵湯に浴れたり、キンセイ様を祀ったり、丈夫な男の子を産むようにと奨励した位であったから、南部様の御殿にも、之を安置してあったかも知れない。世の仇浪あだなみを知らぬ深窓の姫君も、ものの本などに読んだ事があるが、未だ見た事のない異態の怪物を見ては、若き血潮のぎって、天地配合の機微の、果たして如何なるものかを疑わずに居れぬ。是れが人間の本能である。殊に美食暖衣に飽きて、栄華の生活をなした女性にょしょうが、一念ここに至っては一片の理性ばかりで抑え切れるものでない。磨いた心の鏡も曇って、遂に鳳友鸞諧ほうゆうらんかいしもべとならねば止まぬ。動機という者は実に恐るべきものである。南部家の姫様に生まれた方でも、とうとう心機一転して、異性の者を近づけるようになったのは、なんと浅間しい女心ではないか。

▲相手は誰だろう

締りの厳重な御殿の奥の間に、如何どうして忍ばせたものか、月日の経る内に袖にも包まれぬ大きなお腹になった。人種改良を奨励しておる殿様だから、姫君の此の働きを褒めそうなものだが、以っての外のお腹立ちで厳しい相手の詮議立せんぎだて、侍女や家来を責めること毎日毎夜で、ひど折檻せっかんを加えたけれども一向に相手は知れない。果ては国中にお触れを出して、姫君の相手を知らせたものには何百両という大金を呉れるといって詮議したが、夫れでも少しも判らない。殿様の躍起となるのも無理はない。

▲閉門を申付けた

こんなにまでしても相手が知れぬとすれば、是は人間業にんげんわざではあるまい。何でも神様の浮気したろうというので金田一という宿にあるキンセイ様の本尊に閉門を申し付けた。神様も良い災難さ、此の金田一という宿の名はキンセイ様の本元であるから出来た名だそうであるが、其の由来はく知りません。

其処には立派な堂社やしろがあって、キンセイ様の本家本尊として国の人々の参詣は絶えることはなかったが、姫君の妊娠みおもになった騒ぎから、キンセイ様が夜這に出るのだろうというので、わしに、其のお宮の番人を言付けられた。なんと色消いろけなしな話ではありませんか。俺だってこんな神様に罰を当てられては男冥利おとこみょうりは尽くるから閉門の番人をお受けしたが、実は神様の自由に出られるように明けっ放して、毎晩賭博とばくばかりして居った。思えば滑稽こっけいの至り

▲酒池肉林の豪遊

こんな馬鹿気ばかげた番人ばかりしても居られず何かうまい汁を吸わねば、埋め合わせが付かないから、柄にもない事だが台屋踊だいやおどりというものを工夫した。之れは素からあったものだが、俺のは一通りの型を知っただけで夫れに好い加減な自分流を加えたものだ。全く物になって居ない。夫れでも江戸弁で殿様の御気に入ってったから、何時でも酒宴さかもりの時には踊らせた。其の時、盛岡の城下、川向うに土田という所があって其処に女郎屋が二三軒あった。殿様はあの広い岩手川に船橋ふなはしを架けて、毎晩のように遊女屋にお忍びになる。俺は何時もお伴で行くが、有らんかぎりの美味佳肴びみかこうならべ花の如く着飾った女どもを大勢寄せてのお遊び、俺に台屋踊だいやおどりを踊らせて、打ち興じて居らるる所は、何処までも殿様は殿様だ。斯うして二ケ月も遊んで居ると、其の事は江戸に聞こえて南部様の評判は大層悪くなった。そこで仙台様はご親類の事でもあるから、態々わざわざ江戸に行って御老中などに取持って呉れて、ようやく無事に納ったが、そうなるとわし居悪いにくくなって、南部から逃げ出した。南部に居ったのは、わずかに半年ばかりでしたが、随分面白いことはありましたよ。

柳川熊吉翁語り残し「十三」

▲ 南部の地雷火騒

之れも盛岡の居った時の事であるが、地雷火じらいかを敷設したというさわぎがあった。何の為めであったか、俺には能く判らぬが、清水谷侍従しみずだにじじゅうが下るというので、松前様は盛岡まで迎えに来られた事があった。其の時、南部の人で画家の某というのが清水谷様通過の山の上に地雷火を仕掛けて居った事があった。清水谷様に遺恨のあったのか、松前様に遺恨のあったのか、わし等には判らなかったが、仙台様などは言い訳のために江戸に上がったとの事である。今になったら、何の為めであったという事も判って居ると思いますから俺には関係のない事だが、一寸ちょっと附け加えて置きましょう。

▲函館から福山へ

南部も不首尾になったから、貯えた金を持ってオ更おさらばを極め込きめこみ、南部領の大間から便船で函館に渡ったのは俺の三十一二歳の頃であった。其の頃、俺の知っている寿司勝というものは福山に居って料理屋を始めて居ったから、函館から更に船で福山に渡ってスシ勝の所で働くことになった。

▲腰の弱い奉行所

福山藩は、隣藩との関係はすくなかったために武士に忌むべき金に齷齪あくせくしたかたむきがあった。相手は漁場の請負人とか、諸国の商人等であったからやむを得ぬ事であったろう。夫れが為めに士風ははなはふるわなかった。一例を挙ぐれば、俺の福山に行った折の事である、京都から医師に野呂貞元というものがあって、其の酒乱と来たらお話にならぬ。夜中大道やちゅうだいどううたって歩いたり或は人に乱暴を加えたり、手の付けられないものだが、奉行所では之れを如何ともすることは出来ない。仕方なしに貞元の薬を呑むなと言い触れしめた。之を聞いた貞元、怒るまい事か、直に奉行所の怒鳴り込んで、人の家業を妨げるとは何事であるか、かかる御諚ごじょうがあるならば京都の朝廷に訴え出ると脅し付けたので奉行所でも持て余し、漁場請負人等に仲裁して貰い、金五百両を貞元に与えて京都に帰って貰った事があった。何と腰の弱い奉行ではありませんか。他藩にこんな事があったら、医者の方で叩っ斬られるのであろう。

▲魚の見分役となる

俺がスシ勝の所で料理の手伝をして居た時、落部から捕れたというて大きな魚を城下に持ってきた。福山の魚屋どもは寄って集まって見たが、何という魚か名前さえ判らない。食うものか食わぬものかは猶のこと・・・。

そこでスシ勝の所に居る、江戸の料理人に見て貰えという説が出て、俺を迎えに来たから行って見るとカジキ鮪であった。是は斯ういう風にして食えるものだと説明して教えたけれども魚屋は誰も買うというものはなく、俺はその大鮪をただで貰った事があった。此の鮪の見立てで俺は大層顔がよくなって、福山の魚屋でも料理屋でも俺を親方のように敬って呉れました。夫れからというものは、見た事のないうおの捕れた時や又は魚の料理方に就きて、何時でも相談を受けるようになったが、夫れは奉行所にも聞こえ、家老職なども海岸の土地であるのに魚の見分けを知らぬといっては藩の恥辱はじであるといって、俺に二人扶持を付けて魚の見分役みわけやくというものになった。何と奇態な役目のあったものでしょう。夫れから一人殖え二人殖えて、遂に五人までになった。

柳川熊吉翁語り残し「十四」

ふぐの着物を造る

其の時、上在から真鰒まふぐが沢山れた。土地の人々は毒があるといって、誰れも食うものはなかった。そこで俺は其の皮で着物を造って漁夫等に着せた所が、水が弾んで濡れないから大層重宝がられた。それから鰒を盛んに買い集めて、その皮で着物を造って売り出したら原料もとほとんど貰ったような安値であるのに、多少の加工したとはいえ、只自分の手数てすうつかったばかりであったから、面白い程もうかった。然るに好事魔多こうじまおおしで、之れも故障がはいってめられた。

▲毒薬を乾かした罪

人間というものは、仕方のない動物で、人の功名手柄を妬んだり人の事業を妨げたり、自分の関係のない事までも、お節介をして呉れるには呆れる。昔ばかりでなく今でもそんな人間は、そんじょ其処らに転がって居るだろう。嫉妬不快という事は女ばかりでない、男でも随分肝っ玉の小さいものは多い世の中だ。俺は稍々やや儲口もうけぐちに取り付いて、盛んにふぐの皮を乾かして居ったが、所の者に妬まれて柳川は鰒から毒薬を拵えて居ると言い触したものがあった。それが漸々広くなって奉行所まで聞こえて、実地の検分を受けたが、少なからず乾してあったので遂に毒薬を乾したというとがを受けて鰒の乾方ほしかた禁止されたばかりでなく、所払ところばらいにまでもなろうという破目になった。

▲展開した新機運

然るにここに局面一転して、所払ところばらいにでもなろうかと心配して居た俺が、松前藩の委員として江戸に上るような幸運に出会でっくわした。何んと人の運命ほど測り知れないものはないではないか。其の理由わけうである。恰度ちょうど其の時蝦夷は幕府の直轄となって、是迄漁場は取り上げられるという騒ぎか持ち上がったから、殿様も大層心配して町民等にも夫々相談せしめて、意見を聞かれた。各町では五人組といって五人宛の相談を纏めて、更らに五人組の一人が五人会を開き、斯くして煎じ詰めた意見は、漁場を取り上げられては松前の人民は死なねばならぬから江戸に惣代人そうだいにんを上せて嘆願する事になった。

▲委員に選定さる

江戸に上って其の筋に嘆願するとせば、案内者を頼まねばならぬ。まだ江戸に上った事もない人が多いし、江戸の町は一向不案内であるから、江戸から来て居る人々に頼んだがよかろうというので、其の時江戸から来て居った俺等五人に頼んで江戸に行ってどんな運動をするかと俺等に意見を聞いたから、俺は江戸の侠客きょうかく新門辰五郎しんもんたつごろう乾児こぶんであるから、新門の親分の手から旗本でも御老中でも願って見ましょう。親分が一肌脱いで呉れたなら、御老中を動かす事は朝飯前の事サと、唐梯地とてちとない法螺ほらを吹いて漁場請負人ぎょばうけおいにん等をけむに巻いた。他の奴等も奴等で、俺の上を越して、おれは小石川の水戸様に出入して居るから、水戸様に助成とりなして貰うとか、俺は紀伊様の兄弟分ですの、好い加減な嘘八百を並べて、自分のらい事を広告した。俺などは新門を担ぎ出した位はまだ罪の軽い方でしたよ

▲百八十人の一行

漁場請負人は伊達、栖原を始めとして巨万の富を積んで居るものばかりであって漁場を取上げられては大変であるから、金を惜しまずに運動させて、俺等わしら江戸ッ子の五人には、一人に付き三百両ずつの旅費を呉れ、町民の惣代人等と共に江戸にのぼせる事になった。何んでも人数が多ければ、国内の大事だと思って、お上でも屹度きっと聞いて呉れるというので、誰れ彼れと誘って、六十人ずつ三組となって、驚くなかれ百八十人も上った。松前城下の騒動は更なり。道中での評判は大したものであった。俺等わしらは三百両も懐中してるので、面白可笑おもしろおかしき道中をかけて、かく無事に江戸に着いた。

柳川熊吉翁語り残し「十五」

▲山下奉行の卓見

漁場取上げは、松前家の浮沈に関する大問題である。漁場請負人等は自分等の家業を失うし、城下は起つか潰れるかという騒ぎであったから、此の問題の起こってからは一ケ月余りも相談だとか集会だとかで日を潰して仕事も碌々出来なかった。国詰めの家老や請負人や町民などは挙って、江戸行きに賛成したが、たった一人反対を唱えた。夫れは其の時の松前奉行山下という人であった。国論が殆ど一定したにも拘わらず江戸へ直訴などは却って松前家の運命を危うくするものである。そんな不穏当な運動を止めたほうがよかろうと主張したので熱狂して居る藩士も町人も、山下は国賊であるとののしり、果ては斬殺してしまえと激昂して山下の屋敷に押蒐おしかけるものもあったので山下は家に居ることが出来ないで光善寺の方丈に頼んで寺に隠れた程である。そんな風であったから騒ぎは一通り出なかった事は知れる。併し後になって見ると何方が国賊であったか、俺等も罪な事をしたものだ。

▲江戸家老の狼狽

松前から直訴の団体が上ったという事が俺等が江戸に着く前に、江戸詰の家老に聞えた。其の連中は江戸を横行して何処の屋敷へでも出入りしては松前家の恥辱になるから。詰合つめあいの人々はすこぶる狼狽して江戸の入口に待受けて皆んな百本杭ひゃっぽんぐいの大川端にある松前家の上屋敷に連れて行って、門の内から外へは一歩も出さない。体の好い牢屋入り見たいなものである。案内して行った江戸の人だけは自由に出入りを許したから俺は新門の親方の所に挨拶に行った事もあったが、唯、松前の人々から案内に頼まれたというだけで俺等は煽動して来たともいえず、二三度ご機嫌を伺いに行ったというに過ぎない。松前から来た人等は閉門に逢うて如何する事も出来ず、上屋敷かみやしきから中屋敷なかやしきに移されたが矢張やっぱり閉門同様で外出させない。皆なが憤慨どころか今度は笠の台が恐ろしくなって来た。斯うして首でも斬られるんじゃないかという心配が出て来て、直訴の話は爪の垢ほども出なくなった。

生命辛々いのちからがら逃帰にげかえ

如何どうなる事かと、一同安き心もなく日を暮らす内に、江戸には何も用はないから、帰国したい人は早く帰れと言い渡された。そうすると我れ先にと帰国を申出でて、初めの元気は何処へとやら、しおれ返って帰国を願った。たまには二三日も江戸見物をして行ってはと勧めても、後の祟りは恐ろしいといって散り散りバラバラ逃げるが如うに帰途に就いた。江戸詰合の取扱はそんな風であったから俺等はを誰も恨んだ人もなく欺されたと思った人もなかろうが、之れが始めの話の通りに、新門の親方に行くとか水戸様に連れて行けとか強請せがまれたならば俺等は雲隠れせねばならぬと覚悟して居ったに、願ったように出来たので俺等も別に顔を汚さずに済んだが、よい馬鹿を見たもんだ。俺等はお蔭で久振りに江戸を見たが、大金を出した人々にも気の毒である。

柳川熊吉翁語り残し「十六」

▲仕方なしに戻る

折角せっかく江戸まで連れ出したが、不首尾ふしゅびで面目ないような気がしたから、請負人や町の人々が戻った後に残って、何か仕事を見付けようと方々まわって、人にも頼んで見たが、辰浪たつなみは未だ自分を狙って居るようであるし、四五年も江戸に居なかったから誰れも世話して呉れる人もないし仕様事しようことなしに、福山のスシ勝を頼るより外の身の振方は付かない。幸いにも福山の人々は、今度の失敗は自分等の為でなく、江戸詰えどつめの家老等が圧制したからだと思って居るので、福山に行っても顔向かおむけがならないという程でもあるまいと思って、皆んなに遅れてブラブラ青森から福山に戻って来た。

▲函館東屋あづまやに来た

スシ勝のところに遊んで居ると、前から知合であった東屋というのが、函館で女郎屋を開業するから俺に手伝に来て呉れとのことであった。之れを幸いと函館に来て東屋に厄介になっていたが、其の時の山の上の繁盛は素晴らしいもので、毎夜大門おおもん閉め切りの全盛であった。話に聞いた金の成る木でもあるのかと思う位であった。俺の来た翌年には山の上に見番けんばんも出来て、諸国の商人や漁場請負人等の懐中ふところの金を、まるでほうきで搔き集めるようであった。

▲非常方から町兵へ

見番が出来た所で取締等が俺を見込んで見番の非常方になって呉れとのこと。非常方とは火の番のようなものだが、其の外には芸妓屋とお客とのゴタゴタをさばいてやったり、抱主かかえぬしと芸者の捫着もんちゃくを片付けるのであって、随分幅の利けたものであった。所が横関という人は、世の中は大層物騒になって、何時黒船の襲い来るやも知れず、幕府の備えを待つまでもなく自衛の方法を考えねばならぬというので、町兵を募っていくさの稽古を始めた。俺は非常方であるから是非町兵になって若者を指図するようにとのことで、無理無理俺を町兵に入れた。

▲英吉利兵式稽古

横関は英吉利流の兵式を習得したと見えて町兵に英国兵式を習わせた。恰度ちょうど今の支庁の上に馬場があったから、其の馬場で稽古するのであった。稽古するにはクリ袴を穿いてツツポを着るのだが、誰れも之れを着るものはなく、今の消防夫の着て居るような刺子というもの着て稽古するのだから其の動作は全くなって居らぬ。俺も始めは着ることを好まなかったが、ても見て居られないで俺から着初めた。それでも矢張着たがらなかった。

▲鉄砲を打たせる

小銃を買い集めて、鉄砲の取り扱い方や発砲の姿勢方法などを一通り教えたもんだから、町兵等は実弾の射撃をやって見たくも仕方がない。教師に向ってぜひ実弾を射たせて呉れいとせがむので、教師等もほとほともてあましたが、遂に一策を案じて、日比ひごろ着ることを好まぬ稽古着を着れば、実弾を撃たせるという条件をつけたので、さあそうなると我も我もと先を争うて、稽古着を着るようになった。其の代り函館山の烏がお蔭で吃驚びっくりして、居所を失ったという風であった。

柳川熊吉翁語り残し「十七」

▲仏蘭西式の兵術

彼是してる間に仏蘭西の士官なども函館に来て、軍用金も貸すし、兵器も貸すから、仏蘭西の兵術を習えと申し込んだそうであるが、其の為めであったか如何か知らぬけれども兎に角、仏蘭西流の兵式を習う事になった。俺は其の時は身体が悪くて、能う習わなかったが横関から無理に強いられて進まぬながらも稽古に取り掛かったけれども、今で言う所の器械体操をやらせるので身体は利かない、ても棒に捉まって引っ繰り返ったり高き処を飛越えるなどは俺には出来なかった。若い人等は能く出来てあったが、仕舞しまいまで我慢が出来ないで俺だけは中途で止めて仕舞った。

▲ライスの牛を銃殺

其の時米国人で、領事として駐在してあったライスという人は、牛を飼ってあったが、如何した過失あやまちか山八という人の倅が其の牛を銃殺した。ライスが怒るまい事か、牛を殺した若者を銃殺せねばならぬと怒鳴って聞かない。其の時の外国人といえば、非常に威張ったもので、日本人などは全く人間のように思って居なかった。無理乱暴な事をしても、誰れと咎めるものはなく、幕府の役人すら手を付けかねて居たのだから、其の我儘ッたらなかった。若し、若者を出すことは出来ぬなら金五〇〇両出せとの談判である。

▲領事館に乗り込む

山八も分別に余って居れの処に頼むに来た。そこで俺も打棄うっちゃっては置けず、領事館に乗り込んで談判を開いた。牛を殺したから金を出せとは聞こえるが、金を出さねば其の人間を殺すというのは如何いう理由だと、アベコベに啖呵を切った。ライスの言うには、牛も生き物であるから人間と変わりはないという。多分、然う来るだろうと思って行った事であるから、待って居ましたとばかりに、そんなら牛も人間も同じであるという事を書きなさい。然うすれば立派に殺されましょう。其の代わり五百両の金を持って来て貴方の生命をも買いましょうと脅し付けたらライスも俺の権幕に怖気おじけがさしたか如何しても書かない、書かなければ此方でも勝手にすると大威張りで出て来たが、まだ安心は出来ないから

▲柳田翁に相談す

其の足で、丸本柳田翁まるほんやなぎだおうの意見を聞くに行った。翁のいうには、お前の量見りょうけんならば、其処そこらは上出来だろう。まあ放って置け、若し重ねて文句を言って来たら、今度はおれは相手になってやろう。毛唐の一人二人愚図り出したのにビクビクして居っては、今の騒々そうぞうしい世の中に生きて居られるか。明日にも露西亜が来るか、幕府の脱走兵が来るかと、人民安き心もないのに、牛の一匹二匹殺したとて文句を付けるような外国人なら此方から片付けて仕舞しまへ。夫れより殺した牛を如何どうした、何故持って来ないのか間抜けな事をしたもんだと、散々叱られたから成程なるほど牛を取って来れば結構な酒の肴が出来たものをと狼狽うろたえて取るに行けば、上手のものもあるもので、小使こづかいの啓助という者は五十円に売り払ってチャンと口を拭いて居ったには俺も開いた口が塞がらなかった。

柳川熊吉翁一人語り「十八」

函館市中央図書館に所蔵がなく欠落

柳川熊吉翁一人語り「十九」

▲官軍方の探偵だ

怖々ながら、迎えに来た士官に連れられて赤船に行った。初めて見る外国船の立派さ、其の大きいのと丈夫な事は、所謂いわゆる親船に乗った気で、我ながら心強く思った。案内さるるままに、或る一間にうて見ると綺麗な敷物の上に椅子いす卓子テーブルが並べられ、室内の額や飾物かざりものなどは目を驚かすばかりである。何とかいう西洋のお茶を吞んで居ると、洋服を着た日本の若い紳士が二三人出て来て、椅子に腰を掛けてから上席の人は先ず口を開いて、天下の政権まつりごとは、再び朝廷に復かえった事と、人民は悉く天子様に忠義をせねばならぬ事などを諭して、吾々は国内の騒動を鎮めようと苦心して居るのだから、函館奉行所の永井玄蕃に面会するように取り計らって呉れと言われた。其の方々は田島圭助さんと井上馨さんであった。

永井玄蕃ながいげんばんに通ず

如何どういう用談か知らないが、言われた通りに永井さまに伝えた。下役と相談したるに、官軍方といえば面会する必要はないという論が盛んであったが、流石は玄蕃さまは上役だけに、先方から官軍の探偵だと名乗って来るくらいであれば、何も恐るるには足らない。何の用だか聞いたうえで、此方で承諾するともせぬとも、勝手に返答することが出来る訳であるから、兎に角面会しましょう。併し此方から船に行くことはならないから必要とあらば捌所さばきしょまで来いとの挨拶であった。そこでわたしは再び小船に赤船に行き其の旨を答えたら、何処でも場所は構わぬ、面会すれば好いからというのでわしの小舟に乗って、二人は税関前の捌所さばきしょに上陸した。

▲官幕使臣の会合

捌所さばきしょで田島、井上の二人は、永井と密議をこらしてあった。其の席には誰も加わらないから、何事の打ち合わせをしたか、更に知る事は出来ないが、犬猿けんおんただならざる所の、朝廷の方と幕府の方との会合だから六ケ敷むつかしい顔でもして別れるのかと思って居たら、大層打ち解けたような面持ちで、是れから五稜郭に行くのだから、俺にお伴をすれとて俺は永井さまの風呂敷包みを背負い、田島井上の案内に立った永井の後ろにいて五稜郭に入った。下々の者ならば、敵味方と別れたうえは、見当たり次第に闘会なぐりあいでも始める所だが其処そこは腹の大きい人々は違ったもので、明日にも西と東に分かれていくさをするか知れぬのに、互いにかたわろうて一緒に歩くなどはなんと奥床しいものではないか。


▲田島をうちに隠す

五稜郭で良々暫ややしばらく相談をした様子であったが、永井さまから呼ばれて其の席に出ると田島さまは船に泊って居っては何彼なにかに不便である。さらばといって郭内にお泊め申す事も出来ず、お前の所なら誰れも気が付くまいから、お前がお宿をすれとの命令でありました。俺は官軍方の人をお泊めすることは、危険で仕方がないから、成るべくお断りしようと思うて、色々と都合が悪い事を申し上げたが、永井さまはどうしても聞かない。お前のうちほかには、お泊めする所はないから、是非引き受けろ、後の事はわしは不都合のないように取計とりはからってやるからとの事で、実は止むなく田島さまのお宿をすることになりました。

柳川熊吉翁一人語り「二十」

▲用心堅固の隠家かくれや

俺の家は其時今の船見町にあって、ハウルさんの隣りになっていたから大層都合が好かった。其の時は外国人の屋敷には、承諾がなければ設令たとえ役人でも踏み込むことは出来ないことになっていた。俺は元来賭博が好きであったから、家を造る時からげ口を拵えておった。恰度ちょうどハウル屋敷にいた方の座敷には。床の間があって其の床の間の掛物の影には、壁を切り抜いたにげ口をこしらえている。

平生ふだんは掛物を取っても、一寸目に付かぬように巧く出来ておって其のにげ口の裏には、更らに半間はんけん位の廊下があって、其の廊下の床下から外に出られるようになっている。此の廊下は母屋として建てた一部であるから、外から見ては床の間の影にこんな抜口ぬけぐちがあるとは誰れにも気付かれない。今までは此の抜口ぬけぐちつかったことはなかったが、官軍の方を幕軍の勢いのさかんな処に泊めて置くのだから、少しも油断は出来ないと思って、此処に隠して置いたのである。

▲果して幕軍の夜襲

田島さまばかりだと思ったら、井上さまも一緒であった。家の人々にも能く言い含めて、決して泊り人があることを言わせなかった。けれども隠すより顕わるるはなしで、二人は一寸も外出はせぬが、時々永井さまからの使者つかいがあるので、人の出入の激しい遊郭内くるわないのことであるから、誰れ言うとなく熊吉のうちに官軍の人は隠れているとの評判は立った。俺は別に官軍だとか幕軍だとかはう分け隔てを立てているのではないが、兎に角沖口番所には官軍が来るかというので番をしておったのだから、言わば幕軍である。夫れに官軍を泊めて置いては仲間の者に言い分が立たぬが、俺を見込んで頼まれて見れば此の二人は殺させることは出来ない。自分の身に代えても助けて上げようと決心しておった。彼是れ五十日もおったでしょうが、其の内に三番隊というのが最も官軍を憎んでおった。其の三番隊に此のことが聞こえた。血気に逸る若者どもは、今は官幕の開戦目の前に迫っているのに熊吉官軍に裏切りするとは不埒であるといって、俺の家に夜責めに来た。こんな事があろうと思って前からハウルにも頼んで置いたし、二人の方にも抜け口を教えておったから夜襲の来るや否や二人を逸早くも隣のハウル社に逃がして仕舞った。三番隊の隊長は俺と口論の揚句、家捜しをして見たが、何処にもいる様子がなので、手持ち無沙汰に引揚げた。夫れからハウル社から又十の蔵の処にポータという英国人がおったから、夫れに頼んで沖にとまっていた官軍方の船に送って遣った。其の時は随分危険であって、今思うても背中がヒヤヒヤするようであった。

▲榎本子と初面会

其後間もなく、幕府の脱走兵は函館に来て函館戦争となった。榎本釜次郎さんも五稜郭に入って、苦戦されたとは皆さんもご承知であるから、戦争の話は省きます。俺も五稜郭に出入りして、榎本さんのお顔を見ましたが、戦争の時には別に榎本さんと名乗合なのりあって、お話をしたことはありません。いくさが治まってから、榎本さんは露国の公使になった。暫らく彼方にお出になっている間に俺は東京に行って井上さまにもお目にかかって色々昔譚むかしがたりをしたこともありました。夫れから榎木さまは露国から帰って函館にお出でになった時、始めてお目にかかってお前は熊吉であったかというおことば抑々そもそも榎本様にご贔屓ひいきになった始めでした。

決して戦争当時から知っておったということではありません。それがご縁で碧血碑へっけつひを建てたり、井上様や松方様などにお目通りを出来たりして、自分では非常な名誉なことと思っています。

▲更科蕎麦の開業

わし谷地頭やちがしら更科蕎麦さらしなそばを開業したときは明治四年で、其の時谷地頭には十二軒しか家は建っていなかった。其の時のことを思うといろいろ面白いことがありますが、夫れは断片きれぎれの話で別に連絡つづいた一代記という訳でないから、いずおりがあったら又思い出して話しましょう。

「終」


◆質問や感想、入会申込などは以下のメールアドレス sewanin(at)hekketsu.org  あてに(at)を@に変えたうえで 送りください。

(函館碧血会・事務局)

最初のページに戻る