箱館戦争と榎本軍の人々

目次
No. 内容 著者
15. 中島三郎助、辞世の句歌 函館碧血会
16. 埋葬された土方歳三の行方(1) 函館碧血会
17. 埋葬された土方歳三の行方(2) 函館碧血会
18. 箱館・榎本軍の群像 函館碧血会
19. 箱館戦争と関連する施設 函館碧血会
20. 箱館戦争に参加した碧い目のサムライたち 函館碧血会


R.02.08.21
 

15.中島三郎助、辞世の句歌

 

函館碧血会

 

 中島三郎助という人は、本来は優秀な技術者でした。この時代に、造船学・航海学・蒸気機関学・砲学などを専門とした開明的な技術者でありました。そしてまた、外交や海防問題にも造詣の深い、有能な幕臣だったのです。榎本武揚が開陽丸でエゾ地に向かうとき、中島三郎助は長男恒太郎、次男英次郎と共に、息子たちと変わらない年齢の、浦賀奉行所の若い与力たちを伴って、エゾ地に向かったのでした。

 

 明治二年五月十六日、新政府軍の備後・薩摩勢を相手に戦ったのですが、旧幕府軍・中島隊に利あらず、中島隊は壮絶な戦いの結果全員戦死し、敗れてしまいました。この戦いが、箱館戦争での最後の戦いとなり、榎本武揚に降伏を決意させた戦いであったといわれます。中島三郎助の戦いぶりは、自分の信じる「士道」を最後まで貫いて、そのことを後世に伝えた、サムライの一人であったことを、思わせるものでした。

 

しかしその一方で、中島三郎助という人は、俳人・歌人としても知られており、多くの句歌を残した文化人でもありました。とりわけ箱館に来てからは、家族に何通もの手紙を送っており、自分の覚悟と家族への愛情を感じさせる内容の手紙を多く送っていました。特に生まれて二歳になったばかりの三男・與曾八には、その成長への気遣いと家族に将来を託す内容が綴られていました。また母に宛てた手紙には、日付が三月六日とあり、箱館決戦の二か月前であることからも、諸方から知らされる情勢で最後の戦いが迫ったことを知り、最後の別離の手紙を書いたものと思われる。そこには、母よりも先に逝くことを詫びながら辞世の句を詠むという、切ない内容が認められていたといいます。

 

【家族への手紙と辞世の句】

 我等われらこと多年たねん病身びょうしんにて若死わかじににいたすべきところ、はからずも四十九年しじゅうくねん星霜せいそうしはてんこうというべき

 このたびいよいよ決戦けっせん、いさぎよく討死うちじに覚悟かくごいたし候間そうろうあいだ與曾八よそはち成長せいちょうのちは我ちゅうをつぎて徳川家とくがわけ至大しだい御恩沢ごおんたく忘却ぼうきゃくいたさず往年おうねん忠勤ちゅうきんをとぐべきことたのみいりそうろう

明治めいじ二年にねん中島なかじま三郎さぶろうすけ

 おすす殿どの與曾よそはち殿どの、おじゅん殿どの、おたう殿どの

 尚尚なおなお御母おはは上様うえさま積年せきねん高恩こうおんをもむくひず御先おさき遠行えんこういたそうろうおそれいりそうろうまま宜敷よろしく御申上おもうしあげくださるべくそうろうこのたんとうはちへ、かたみとしておくりもうしそうろう

辞世の句

 「ほととぎす われもく おもかな

【母への手紙と辞世の句】

 御母おんはは上様うえさま  一筆いっぴつもうたてまつそうろう春暖っしゅんだんのみぎりと相成あいなそうろうところ益々ますます機嫌きげんよく御座ござあそばされ、恐悦きょうえつ至極しごくたてまつりそうろうしたがわたくしならびにせがれりょうにんとも無事ぶじまかりもうそうろうあいだおそながあんりょくだされるそうろうさて御病気ごびょうき御全快ごぜんかいされそうろうとん御左右ごさゆう様子ようすうかがそうろうて、ごあんもうそうろう

わたしいよいよこんぱんけっせんうえ討死うちじに覚悟かくごつかまつそうろう是迄これまで年来ねんらい容易よういらざる高恩こうおんけ、御老年ごろうねん御前おまえさまき、御先おさきえん行仕こうつかまつそうろう不本意ふほんいいたりにそうらども徳川家とくがわけ累代るいだい御恩沢相ごおんたくあいしらせそうろううえ是非ぜひつかまつうにぞんたてまつりそうろうだん幾重いくえにも御免ごめんあそばされるそうろうずは、御機嫌伺ごきげんうかがい方々かたがた早々そうそうごとそうろう恐惶きょうこう謹言きんげん

 三月六日 中島三郎助 中島なかじま御母おんはは上様うえさま

辞世の和歌
「あらしゆうべのはなぞ おしまるる         あしたまつべき にはあらねど」


中島三郎助父子(函館中央図書館蔵)
(上:三郎助、下右:長男・恒太郎、下左:次男・英次郎)


中島三郎助最期の地碑(函館市中島町)


R.02.08.23

16.埋葬された土方歳三の行方(1)

函館碧血会

(1) 函館市大圓寺説

 大正六年(一九一七)に「戊辰戦争戦没者慰霊祭」の五十回忌が、全国各地で行われた。北海道においても「箱館五稜郭戦争戦没者霊位五十回忌供養」として、森町鷲ノ木霊鷲院や亀田郡神山村無量院(現・函館市大圓寺)において盛大に供養祭が執り行われたという。

 土方歳三の遺体は、大圓寺の墓地正面に植えられた大きな二本の松の木の下に埋められていたという口伝があった。五稜郭戦争当時、土方付きの馬方であった吉田松四郎の弁であったという。上記供養祭の席上、出席者全員で「二本松の下に土葬されている遺体は土方歳三である」ことを確認し、この遺体の改葬をしようとその計画が提案されたのであった。しかしこの時、吉田松四郎は、何かにおびえたように頑強に拒んだため、改葬は実現しなかったが「箱館五稜郭戦争戦没者霊位」の墓標だけは二本松の側に建てたという。

 このことがあった翌年、松四郎は明治二年から五十年を過ぎたことを理由に、土方歳三の遺体の改葬に踏み切り、掘り返して遺骨と鎖帷子を火葬した。そして、土方が生前望んでいたという、大圓寺の無縁塚に収めたのだという。

 この無縁塚は元々、文久四年(一八六四)に幕士の斎藤久七郎と石工喜三郎が、五稜郭築造工事に参加して不幸にも途中で斃れた土工夫たちの霊を鎮めるために、建立したものであった。無名の土工たちに対する温かい思いが伝わってくる。

土方歳三は生前「自分の遺骸は箱館奉行所の墓地である大圓寺の境内か無縁塚に埋めて欲しい」と部下に話していたという話も不思議ではない。近藤勇のさらし首や会津戦争で見聞きした西軍の挙動などから、自分の死を考えた時の遺骨を心配して話した言葉だったのだろう。

(「激闘箱館新選組・箱館戦争史跡紀行」、近江幸雄、平成二〇年を参考に編集。)

(2) 五稜郭内の埋葬者

 五稜郭内の南西側のある、かつて「兵糧庫」であったといわれる建物のすぐそばに土饅頭がある。箱館戦争の時代、榎本軍戦死者が埋葬された盛土だということで有名である。ここに埋葬された兵士・将校の氏名を明らかにしたのは、かつて大正元年から七年まで調査を続けたという片上楽天という人であった。調査結果を『五稜郭史』という著書に、以下のような記述を発表している。(文章、文字を読み易いように適宜整理している。)

①春日左衛門 歩兵頭 明治二年五月十一日没
 亀田新道瓦焼場において負傷、郭内に収容して、少年田村銀之助が熱誠なる看護をするが、永眠する。

②酒井兼次郎 改役 明治二年五月十一日没

③川井卓郎(実名・福島直三郎) 改役 明治二年五月十一日没

④松村五郎 改役 明治二年五月十一日没

⑤田上義之助 会計士官 明治二年五月十一日没

⑥田島安次郎 無役少年 明治二年五月十一日没(十六)

⑦石島徳次郎 無役少年 明治二年五月十一日没(十四)

 上記六名は、郭内において籠城者一同最後の決別宴中、官軍「甲鉄」から発射された弾丸を受け、惨死した。

⑧秋山重松 改役 明治二年五月十一日没
 五稜城内に官軍「甲鉄」から発射された弾丸を受け、戦死した。

⑨伊庭八郎 歩兵頭並 明治二年四月十九日没
 これは、明治二年四月十九日、(木古内)札苅海岸にて重傷を負う。郭内に収容後没する。

五稜郭では、片上楽天の調査の先立ち、明治三十二年にまとめられた榎本軍の「史談会速記録」によると、先の春日左衛門を看護した少年の田村銀之助の証言として「旧幕府軍伊庭八郎の墓は、箱館五稜郭の土方歳三の墓の傍らにある」との証言があるという。
この他にも、別の項に書き込みがあり、土方歳三の記録も入れると、五稜郭には、十四人もの英霊が眠っているようである。

 おそらく五稜郭の中には、まだ発見されない遺骨が沢山眠っていることと思います。五稜郭自体が百五十年前の「…つわものどもの夢のあと」ですから、史跡であるとともに慰霊碑でもあるのだということを意識すべきではないか。

(了)  

【関連写真集】
  
写真 写真
五稜郭 五稜郭
写真 写真
函館市 無量庵・大圓寺の二本松
(今は、二本松の下に慰霊碑が建てられている。)
大圓寺の「無縁塚」

R.02.08.28

17.埋葬された土方歳三の行方(2)

函館碧血会

 土方歳三の埋葬地を七飯村の閻魔堂だとして地名として挙げ、それを掘り返して遺骨を再火葬して「碧血碑」の周辺に収めたとしたのは、明治25年の『加藤福太郎書簡』の報告内容であった。(小著『ある巡査の書簡から』参照。)それまでには埋葬地を、神山の無量院(大圓寺)とした説や五稜郭内説などがあったが、どちらかというと地名だけが先行した伝説として、伝えられていたような話題であった気がしているのである。

 『ある巡査…』の加藤書簡にある説では、加藤福太郎が実際に調査を手掛けた柳川熊吉から、直接話を聞いて、それを郷里に報告書で報せているのである。その分、話にも具体性が感じられたのである。加藤書簡によると、「柳川亭」に熊吉を訪ねて聞いた話では、土方歳三の遺体がどこにあったのか、明治8年の「碧血碑」を建てた当初の頃にはすでに、巷の噂は入り乱れており、どれが本当のことなのか分からない状態であったという。それを柳川らが尽力して取り調べた結果、箱館からわずかに離れた七重村(現・七飯町)の閻魔堂に土葬されていたことが分かったのだ、というのである。

 土方の遺体は、地元の人たちによって宝物のように大切に扱われていたといわれ、この土方の遺体の扱いを地元の人たちとどうするか、種々話し合いを重ねた結果、再び掘り出して、改めて火葬にしたという。そして明治12年に「碧血碑」の周辺に収めたとのことであった。柳川熊吉はこの話の経緯を、ロシアから帰国したばかりの箱館に立ち寄った榎本にも報告したといっていた。

 閻魔堂の埋葬地にあっただろう土方歳三の墓標には、おそらく「土方歳三之墓」を想像させるようなことは書いていなかっただろうし、箱館戦争と直接関係していない地元の住人たちには、土方のことは榎本軍の重役であったこと以外は、直接的によく理解されていなかっただろうと思われる。いくら立派な人でも地域住民から宝物のように大切に扱われるには、何らかの理由があったのだろうと考えられるのである。

 近年、箱館の豪商・佐野専左衛門の末裔である佐野史人さんの、私小説『系図調査余談(佐野専左衛門に関すること)』を読む機会を得た。それによると、土方歳三は七重浜の「閻魔堂」に埋葬されていたという。この場所は、当時は近くに人家もなく、ひどく寂しい所であったようである。海沿いのわずかに丘を上った、雑木林の中に閻魔堂はあったという。ここは、無縁仏や処刑された人々の遺体を処置し、埋葬した場所であったというのである。

 土方と佐野専左衛門との関係を話しておこう。土方が本務の箱館市街見廻り等を行う際、五稜郭から出かけるのでは不便なので、豪商・佐野家を寓居としていた。佐野屋のすぐ近くにかつての称名寺があり、新撰組がここを屯所としていたことから、土方としては何かと便利であった。土方にとって佐野家は落ち着いた居心地のいい所となり、佐野専左衛門とも気の合う仲となった。家族や使用人も土方によく懐くようになっていたという。

佐野さんの私小説によると、土方歳三が一本木関門で狙撃され、絶命してから閻魔堂に運んだのは、専左衛門の手の者であったという。土方の遺体を大八車にムシロで包んで括り付け、急ぎ通りに出た頃にはもはや五稜郭には行くことが出来ず、急遽閻魔堂を目指したのだという。

 箱館からわずかに離れた閻魔堂とは、現在の函館市𠮷川町にある極楽寺である。幕末の頃の箱館の街区境は、一本木若しくは海岸町の辺りであるから、まさしく箱館をほんの少し離れたところだったのである。箱館戦争が終り、明治の極早い時期に閻魔堂の跡地に、佐野専左衛門が極楽寺を建てたのである。専左衛門は、埋葬された土方歳三の遺体が簡単には見つからないように、二重三重になぞかけをして後世に誤解を誘っていたのだともいわれる。例えば寺内に自分の墓所を3カ所も設けていたとか、埋葬地は神山大圓寺だとか、五稜郭内ではないか、という情報を出しては、人々を迷わせていたという。

 豪商・佐野屋は明治に入って、場所請負人制度が廃止されたため、亀田町の現在のガス会社付近に店を構え、醤油製造販売会社を始めたのである。亀田町と𠮷川町は歩いても10分程度の、目と鼻の先であり、埋葬地はいつでも大切に世話することが出来る。しかも極楽寺は自分が建てた寺であり、自分の思い通りに管理運営することが可能である。地元の人というのが佐野屋の関係者であれば、墓を宝物のように大切に扱っていたことも、柳川熊吉が遺体を掘り返して、再度火葬に付することへの話し合いにも、当然応ずることの出来る人たちであったと考えられる。

『加藤福太郎書簡』に書かれた内容と「佐野氏の私小説」の内容は、何の打ち合わせも行っていないが、良く符合しているのである。二つの話題を時系列に並べても、不自然さはない。

箱館戦争が終り遺体を収容したのが明治2年のことである。佐野屋が亀田に支店を設け醤油製造販売会社を始めたのが明治7年である。碧血碑が函館の地に建てられたのが明治8年である。閻魔堂が極楽寺として立て直されたのが明治10年頃とされ、佐野屋の本店を亀田に移したのは明治12年のことであり、そして柳川熊吉と話し合いのうえ再火葬したのも同じ明治12年である。函館市の主要の寺院の墓所から旧幕府軍の遺骨二百数十人分を掘り返して碧血碑周辺に収めたのは宮路助三郎で、明治14年のことであった。吉川町の極楽寺の墓と遺骨を守り続けていた佐野専左衛門は、全てが終ったからか明治15年に静かに病死したという。

このように、二つの話題はスムーズにつながっているように思えるのである。ただ、残念なのはこれまでの土方歳三埋葬説の、どの説にも共通して言えるのであるが、決定的な証拠が出てきていないのである。例えば、埋葬された人物の持ち物とか、着ている服装の特徴とか、最近であればDNA検査の結果とか、そうした証拠になるものがあって、その後に物語で補強されていれば、もっと違う見方がなされたのだろうと思われるのである。

土方歳三の埋葬地に近づくためには、もう少し時間が必要なのかもしれない。

(了)  

【写真帳】

【関連写真集】
  
写真 写真
吉川町、極楽寺(元「閻魔堂」) 極楽寺、墓地境内
写真 写真
元称名寺(「箱館新撰組屯所」)があったとされる場所
現在は「函館元町ホテル」が建っている。
「箱館新撰組屯所」があったとして、説明している「観光用の看板」
写真  
函館市大町界隈
かつて、この付近に「丁(ちょうさ)佐野屋」があったといわれる。
 


R.02.08.30(一部修正 R.03.01.22)

18.箱館・榎本軍の群像

函館碧血会

1.総裁・榎本武揚

榎本武揚写真

幕臣の次男として生まれる。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダに留学した。帰国後、幕府海軍の指揮官となり、明治元年の「戊辰戦争」では旧幕府軍を率いてエゾ地を平定した。五稜郭で「入れ札選挙」を行い旧幕府軍の総裁となった。同2年の「箱館戦争」で敗北して降伏し、東京の牢獄に2年半投獄された。

敵将・黒田清隆の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えた。開拓使で北海道の資源調査を行い、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結したほか、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任し、子爵となった。 また、殖民協会を創立し、メキシコに殖民団を送ったほか、東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科や、東京地学協会、電気学会など数多くの団体を創設した。

2.副総裁・松平太郎

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幕臣の子として生まれ、江戸の仏学者の塾に入門する。幕府では文久年間には奥右筆、慶応3年には外国奉行支配組頭となった。

慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が始まると、歩兵頭を経て陸軍奉行並に任命される。主戦論者だった松平は大鳥圭介らと図って、自らも新政府軍への抗戦に参加するため江戸を脱出し、日光・今市で大鳥と合流した。その後会津戦争で敗れると、榎本らと共にエゾ地へ渡った。

蝦夷地平定後に行われた旧幕府軍の「入れ札選挙」では、榎本に次ぐ得票を得て、副総裁に就任した。主に民政・外交面で活動し、榎本の女房役を務めた。榎本の「洋才」に対し、松平の「和魂」と言われ、人望は厚かったという。明治2年(1869年)5月の新政府軍の箱館総攻撃の際には、奮戦するも叶わず降伏した。

3.海軍奉行・荒井郁之助

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江戸・湯島天神下の組屋敷に生まれる。御家人の子で、幼名は「幾之助」といった。 7歳より漢学・儒学を学び、8歳で昌平坂学問所に入門する。12歳より叔父の薦めで、下谷御徒町の直心影流の剣術を学ぶ。ほかにも弓術や馬術を学び、2 0歳で幕府に出仕し、西洋砲術や蘭学も修めて、軍艦操練所の教授を命じられた。

荒井は、航海術・測量術および数学にも通じ、文久2年(1862年)9月には軍艦操練所頭取に就任、松平春嶽や徳川慶喜らの要人を船で大坂まで送迎していた。

慶応4年(1868年)1月に軍艦頭を命じられていたが、海軍副総裁榎本武揚らと共に新政府軍支配下に置かれた江戸を脱出、箱館戦争に身を投じることとなる。

箱館五稜郭、旧幕府軍の政権下では海軍奉行を務め、宮古湾海戦および箱館湾海戦に奮闘する。

4.陸軍奉行・大鳥圭介

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天保4年(1833)播州赤穂の村医者の子として生まれる。岡山藩閑谷学校で漢学を学び、適塾で医学を学ぶ。のちに旗本となり、開成所教授から歩兵奉行となり、伝習隊を結成する。戊辰戦争では東北戦争後、旧幕府軍の箱館・五稜郭の戦いに参加し、エゾ地を平定し、陸軍奉行となる。箱館大決戦では、新政府軍に負け、東京辰の口の軍務官糺問所の牢獄に投獄される。

明治5年に榎本武揚等と共に赦免された。箱館戦争後、旧幕臣たちの遺体を埋葬した箱館市民の事を知った大鳥圭介や榎本らが、募金を集めて「戊辰戦争の最終地・函館」に碧血碑を建てることを思い立ち、計画された。明治6年に大鳥圭介が函館の地を実際に踏査して場所を決め、翌明治7年には東京霊岸島に石材の彫刻を発注している。

5.海陸裁判局頭取、箱館市中取締役・竹中重固

【画像なし】 旗本・竹中元幸の長男として生まれる。のち、本家である旗本・竹中重明の養嗣子となる。元治元年(1864)に幕府の陸軍を創設後、陸軍奉行に就任した。

慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いでは主戦派として伏見奉行所へ出陣するが、幕府軍敗北によって罷免・官位剥奪される。一時は出家したものの、のちに純忠隊を結成し、彰義隊の支部隊として新政府と交戦した。彰義隊の敗退後は、輪王寺宮を奉じて奥羽を転戦し、のちに箱館五稜郭の海陸裁判所頭取に就任した。明治2年(1869)、箱館戦争終結前に英国汽船で東京へ向かい、5月28日、養父竹中図書の薦めにより投降した。

6.陸軍奉行並、海陸裁判局頭取、箱館市中取締役・土方歳三

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 天保6年(1835)、武蔵国多摩郡石田村に生まれる。10人兄弟の末っ子であった。土方家は多摩の豪農であったが、父は歳三の生まれる3か月前に結核で亡くなっており、母も歳三が6歳のときに同じ結核で亡くなっている。

 土方歳三は京都新撰組にあっては、局長・近藤勇の右腕として組織を支え、数々の武名を顕した。後に新選組は幕府によって最後に取り上げられた幕臣となった。戊辰戦争に入ってからの土方は、旧幕府軍の指揮官の一人として、各地を転戦した。

 最期の地、箱館・五稜郭では「陸軍奉行並」および「箱館市中取締役」という立場で、軍事・治安部門の責任者の一人となって活動していた。明治2年5月11日(1869)の、箱館戦争最後の戦いとなった新政府軍の箱館市街総攻撃においては、新撰組が立てこもる弁天台場を援護しようと一本木関門付近で新政府軍と戦っていたが、馬上の土方は銃で狙撃され戦死したといわれている。

 土方の戦死した場所や埋葬地については諸説があり、未だに特定されていない。享年34歳であった。

天保6年(1835)、武蔵国多摩郡石田村に生まれる。10人兄弟の末っ子であった。土方家は多摩の豪農であったが、父は歳三の生まれる3か月前に結核で亡くなっており、母も歳三が6歳のときに同じ結核で亡くなっている。 京都新撰組は、幕末期の最期の幕臣となった。土方歳三は、その京都新撰組の副長として活躍した。箱館五稜郭に来てからの旧幕府軍の中では、陸軍奉行並として活躍していた。

京都新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として組織を支え、エゾ地に来てからの箱館戦争では、旧幕軍の指揮官の一人として各地を転戦し、戦いは常に勝利していた。またいわゆる「旧幕府軍」の組織内では、軍事治安部門の責任者に任ぜられて指揮を執っていた。明治2年5月11日(1869)、箱館大決戦の戦いで、新撰組がこもる弁天台場を援護しようと一本木関門で新政府軍と戦っていたが、馬上の土方を銃で狙撃され戦死したといわれている。

土方の戦死場所・埋葬地については、諸説あり、未だに特定されていない。享年34歳。

7.箱館奉行・永井玄蕃頭尚志、同並・中島三郎助

[永井玄蕃頭尚志]

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 幕末の旗本。三河国奥殿藩五代藩主の子、二五歳で永井家の養子となった。

 井伊直弼の没後、京都町奉行に復帰し、慶応三年(1867)には若年寄にまで出世する。鳥羽・伏見の戦いの後に、時の将軍慶喜に従って江戸に戻り、徳川家が駿府に転封が決まってからは、榎本武揚と行動を共にし、エゾ地に渡った。

 榎本軍がエゾ地統一後、「入れ札投票」を行ったが、この結果をもとに箱館奉行に就任したという。しかし、明治二年五月十四日の戦いで、最初に降伏したのが弁天台場の守備にあたっていた永井らであった。永井は降伏後も、五稜郭の榎本武揚等にしきりに降伏の勧誘を行っていたという。  箱館戦争が終って永井は、明治五年に明治政府に出仕し、開拓使御用掛を経て、同八年には元老院権大書記官に任じられている。

[中島三郎助]

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 幕末時代の幕臣で、江戸幕府の浦賀奉行所与力であった。のち、榎本と共にエゾ地に渡り、榎本政権下で箱館奉行並を務める。

 生国は相模国で、文政四年(1821)に浦賀奉行所与力の子として生まれる。代々与力を務めてきた家柄であった。若い頃から砲術の才能があり、また父から俳諧や和歌の手ほどきも受けていた。喘息の持病もあったという。

 嘉永六年(1853)、アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航した際に、副奉行と称してアメリカ側と交渉。ペリー帰国後、老中阿部正弘に意見書を提出。この中で、江戸幕府も軍艦の建造と蒸気船による艦隊の設置を主張している。

安政二年(1855)、江戸幕府が新設した長崎伝習所に第一期生として入所し、造船学、機関学、航海学などを修めた。戊辰戦争が始まると、海軍副総裁・榎本武揚等と行動を共にして、エゾ地に向かった。榎本政権下では、箱館奉行並、砲兵頭並を務めた。

 箱館戦争最後の「千代ヶ岡陣屋の戦い」では、それに先立つ軍議で榎本軍全体としては降伏するべきであると主張するものの、自身は榎本らの説得には応ぜず、同陣屋の戦いで討ち死にすることを公言し激戦の末戦死した、四十九歳であった。この戦いで、長男恒太郎(二二歳)、次男英次郎(十九歳)と共に浦賀から来ていた腹心の与力らも戦死した。

 「函館碧血会」が碑前慰霊祭を行う六月二十五日という日は、旧暦の五月十六日に当たり、箱館戦争最後の戦いが行われた「千代ヶ岡陣屋での戦い」の日であり、全ての戦いが終わった日を「慰霊の日」としているのである。

8.松前奉行・人見勝太郎

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 幕末の幕臣。京都に生まれ、慶応三年に二四歳で遊撃隊に入隊し、将軍慶喜の護衛にあたる。

 鳥羽・伏見の戦いの後、江戸に撤退したが、徹底抗戦を主張し、伊庭八郎ら主戦派と共に小田原箱根などで新政府軍と戦った。奥羽越列藩同盟にも関与し、東北地方を転戦後エゾ地に渡った。

 箱館戦争では、渡道後先ず箱館府知事・清水谷公考に嘆願書を渡す使者に任命されたが、途中七飯峠下村で新政府軍と戦いが生じ、使者としての役割はかなわなかった。榎本政権下では、松前奉行に就任していた。翌明治二年五月の箱館総攻撃では負傷してしまい、箱館病院に入院していた。

 明治維新後は、同十四年に静岡・徳川家の「静岡学問所」の校長に当たる大長に就任している。その後は、群馬県営工場の所長、茨城県令などを歴任し、サッポロビールや台湾小脳の会社設立にも関与していた。

 明治三十年代には、度々「旧幕府」主催の史談会に参加して、幕末・維新の談話を残していた。

9.江差奉行・松岡四郎次郎、同並・小杉雅之進

[松岡四郎次郎]【画像なし】

 松岡四郎次郎は、幕臣の子として江戸に生まれたとされるが、生い立ちなど詳しい事はよく分かっていない。松岡はもともと旧幕府軍の一連隊の隊長であったが、仙台で榎本隊と合流しエゾ地に渡ったのであった。

 厚沢部の「館城の戦い」で松岡は、二百名の連帯を率いて館城を陥落させた。その手柄からか、榎本政権下では江差奉行となった

 明治二年の新政府側からの攻撃は、榎本軍を大きく上回る兵力であった。松岡隊に伊庭八郎や春日左衛門らの応援もあったが、新政府軍の圧倒的な勢力の前には為す術がなかった。箱館に戻った松岡は、箱館市街総攻撃に備えて「四稜郭」で守備を固めていたが、途中の「権現台場」が陥落し、退路が断たれたため、五稜郭に敗走した。。

 箱館戦争終結後は、北海道開拓使に出仕したようであるが、その後函館の谷地頭に住んだとか、北海道の炭鉱経営に加わったが失敗したとか、その生い立ちは、これもはっきりしないことが多いようである。

[小杉雅之進]【画像なし】  江戸時代の幕末の武士であり、幕臣であった。安政四年(1857)十五歳で長崎海軍伝習所で機関学を学ぶ。その後は、軍艦操練所の教授方手伝となり、万延元年(1860)咸臨丸の太平洋横断時には、蒸気方の見習士官を務めた。榎本が開陽丸と共にオランダから帰国する際に、乗組員として一緒に帰国している。慶応三年(1867)には軍艦蒸気役一等となり、開陽丸の機関長を務めた。以来榎本とは、ずっと行動を共にしている。箱館戦争では、榎本に従いエゾ地に来て、江差奉行並となっている。

小杉は、絵を描くのも文章を書くのも得意で、箱館戦争後の弘前幽閉期間に箱館戦争の体験記『麦叢録』とその附図を書いている。箱館戦争赦免後の明治七年に内務省十等出仕をはじめとして、農商務省二等属、逓信省準奏任、大坂船舶司検所長などを歴任した。

10.開拓奉行・澤太郎左衛門

【画像なし】  天保五年(1834)江戸に生まれる。幕末から明治期にかけての幕臣であり、新政府軍の海事教官であった。

 安政四年(1857)、長崎海軍伝習所の第二期生として選抜され、ここで榎本と知り合う。また、同様に指導役としての勝がいた。その後、築地軍艦操練所教授方手伝役に任命され、海事砲術の教授となった。

 文久二年(1862)、幕府がオランダに「開陽丸」の建造を発注した際、榎本らと共にオランダに留学する。慶応2年(1866)に、完成した「開陽丸」を引き取り日本に帰る。帰国後、澤は開陽丸の軍艦頭並(副艦長に相当)に任命されている。

 慶応四年(1868)に戊辰戦争が始まり、榎本らと共に開陽丸を旗艦とした戦隊でエゾ地に向かった。エゾ地での澤は、開陽丸の艦長に任命されている。明治元年十一月十五日、松前藩を攻めていた榎本軍は、援護のため開陽丸を江差沖に派遣した。開陽丸を派遣するほどのことはなかったが、その威力を見せつけてやりたかったのであろう。しかし、不運にもその夜、嵐のため開陽丸は座礁沈没してしまったのであった。翌十二月に、榎本政権下で「入れ札選挙」の結果から、澤を開拓奉行に選任した。そして翌年の一月には、早速室蘭に赴任している。

 「五月十七日に至って榎本政権は新政府軍に降伏した。」との報を受け、澤も室蘭で降伏した。そして七月には東京に送致され、入牢した。明治五年(1872)特赦により放免され、のち新政府の兵部省出仕を求められる。海軍兵の学寮の教授となる。明治十九年(1886)に海軍一等教官で退官している。五十三歳であった。

11.会計奉行・榎本対馬道章、川村録四郎

[榎本対馬道章]

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 天保四年生まれ。江戸時代幕末の旗本。官名が対馬守であり「対馬」と呼ばれる。旧姓は高林であり、榎本林右衛門方へ養子に入る。

 文久三年(1863)に一橋家の目付となり、慶応二年には徳川慶喜の徳川家相続に尽力し、同年八月に幕府の目付となる。将軍慶喜は、慶応四年一月戊辰戦争の最中に大坂城を抜け出し、江戸に帰還した。榎本対馬はこの時、大坂を抜け出した慶喜に同行していた。同年八月には、旧幕府艦隊でエゾ地に渡り榎本政権の下では会計奉行に就任している。

 明治二年(1869)五月に榎本政権は新政府軍に降伏し、榎本対馬は謹慎していたが、翌三年(1870)には静岡藩に帰参を果している。その後は、明治政府の開拓使に出仕している。

[川村録四郎]

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川村録四郎については、ほとんど何も分かっていない。エゾ地での榎本政権下では、榎本対馬と共に会計奉行に就任していた。箱館戦争が終結する頃には海軍取調方として、箱館奉行・永井玄蕃の補佐役も勤めていた。弁天台場降伏の前日である五月十四日に、新政府軍・田島圭蔵の要望を受けて、永井玄蕃と川村録四郎は五稜郭に赴き、榎本武揚と田島の会談を仲介した。その結果、弁天台場は五月十五日に新政府の勧告を受け入れて、降伏した。箱館戦争が終って、川村は特赦で出獄することが出来、明治政府の逓信省書記官を勤めたとされる。

12.旧幕府軍、軍事組織の再編成

 榎本武揚は、箱館総督府・松前藩との戦いが終った後、フランス人軍事顧問のブリュネの意見を取り入れて、軍の組織機構を再編成することとした。近い将来、新政府軍と本格的に戦うことになるだろうから、その備えを整えておく必要があった。そして、江差、松前、鷲ノ木などの主要な沿岸地域に守備隊を配置することとした。また、江差沖で沈没した開陽丸の乗組員は「開拓方」と組織替えして、陸上で働かせることにした。これを管理する「開拓奉行」には、開陽丸の艦長であった澤太郎左衛門を指名し、室蘭方面の開拓と沿岸防備にあたらせた。

(1) 榎本政権の組織体系図

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旧幕府軍の軍事組織の概要を添付図に示す。大きくは、陸軍と海軍に分かれている。陸軍の特徴は「四つの列士満(レジマン)」に分けていることである。「列士満(レジマン)」とは、フランス語で連隊を意味する言葉の発音であるが、これをそのまま当て字にしたものである。

(2) 陸軍(陸軍奉行…大鳥圭介、陸軍奉行並;土方歳三)

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【第一列士満】
第一大隊…瀧川充太郎、四個小隊、伝習士官隊、 小彰義隊、神木隊。
第二大隊…伊庭八郎、七個小隊、遊撃隊、新選組、彰義隊。

【第二列士満】…本田幸七郎

第一大隊…大川正次郎、四個小隊、伝習歩兵隊。
第二大隊…松岡四郎次郎、五個小隊、一聯隊。

【第三列士満】

第一大隊…春日左衛門、四個小隊、春日隊。
第二大隊…星恂太郎、四個小隊、額兵隊。

【第四列士満】…古屋佐久左衛門。

第一大隊…永井蠖伸斎、五個小隊、衝鋒隊。
第二大隊…天野新太郎、五個小隊、衝鋒隊。

【砲兵隊】…関広右衛門
【工兵隊】…小管辰之助、吉沢勇四郎
【器械方】…宮重一之助
【函館病院長】…高松凌雲、【頭取】…小野権之丞

(3) 海軍(海軍奉行…荒井郁之助)

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【開陽丸(かいようまる)】…澤太郎左衛門(一八六八年十一月、江差沖にて沈没)
【回天丸(かいてんまる)】…甲賀源吾(のち根津勢吉、一八六九年五月、箱館港にて自焼)
【第二回天丸(だいにかいてんまる)】…小笠原賢蔵(一八六九年三月、九戸港にて自焼)
【蟠竜丸(ばんりゅうまる)】…松岡磐吉(一八六九年五月、箱館港にて自焼)
【千代田形(ちよだがた)】…森本弘策(一八六九年四月、箱館港にて座礁)
【神速丸(じんそくまる)】…西川真蔵(一八六八年十一月、江差沖にて沈没)
【輸送船】…太江丸、長鯨丸(ちょうげいまる)、鳳凰丸(ほうおうまる)、長崎丸(ながさきまる)、美賀保丸(みかほまる)、回春丸(かいしゅんまる)

13.フランス人・軍事顧問団

慶応三年(一八六七)から、横浜で幕府・伝習隊の教練をしていたフランスの軍事顧問団から、副隊長ジュール・ブリュネら五人が、フランス軍籍を離脱してエゾ地の榎本軍に参加した。これを知ってフランス・海軍から二名が加わり、横浜在住の民間人で軍歴を持っていた三名の、合計十名のフランス人が、エゾ地の旧幕府軍に参加した。ジュール・ブリュネは陸軍奉行・大鳥圭介の補佐役となり、四つの「列士満」はフランス軍人(フォルタン、マルラン、カズヌーヴ、ブッフィエ)を指揮官としていた。また、海軍の二人と、元水兵の一人は、宮古湾海戦に参加していた。

最終的にフランス軍人らは、箱館戦争終了直前に箱館沖に停泊していたフランス船に脱出している。これらフランス軍人の通訳は、横浜仏語伝習所でフランス語を学んだ田島金太郎らが担当していた。

大鳥圭介の『南柯紀行なんかきこう』によると、ブリュネを「未だ年齢としかけれども性質怜悧」であると評しており、カズヌーヴについても「頗る勇敢であり松前進軍のときにも屡巧ありたり」と記述している。日本のサムライから見たフランスの軍人評は、ともに好意的な評価をしているようである。

(了)  
R.03.02.02

19.箱館戦争と関連する施設

函館碧血会

(※)本稿は、近江幸雄氏が発行した『激闘箱館新撰組・箱館戦争史跡紀行』(平成20年、三和印刷)の記事を参考にまとめたものです。なお、近江幸雄氏は、「函館碧血会」の役員に就任されております。

1.五稜郭

五稜郭は、安政元年(1854)に、箱館奉行の竹内保徳と堀利熙の建議により建設が認められた城郭である。わが国で最初の洋式築城の五稜郭は、安政3年(1856)に着工し8年後の元治元年(1864)に完成した。設計・監督は蘭学者の武田郁三郎である。面積はおよそ25万平方メートルで、建設費用は18万3千両であったという。

城郭としての特徴は、火砲の発達により旧来の日本型の城では防禦の方法が少ないため、五稜郭は、その対応策として土塁を多く築き、濠を巡らし、稜堡と呼ぶ5つの突出部を作って、どの方向から攻撃されても応戦可能な機能を備えた。

慶応3年(1867)10月、徳川幕府が「大政奉還」して新しい政治体制を作ろうとしたが、薩長連合と一部の公家による王権復古のクーデターが断行され、慶応4年1月に戊辰戦争が始まったのであった。

戊辰戦争の中で、最後の戦いは箱館戦争であった。明治2年(1869)5月11日の箱館市街総攻撃は、壮烈な戦いであった。新政府軍は、箱館山の裏手、寒川に上陸し、箱館山を乗り越えて市街地に突入した。この奇襲作戦により弁天台場を孤立させた。

港内海戦では、幕艦・蟠龍の一弾が新政府軍朝陽の火薬庫に命中し、一瞬のうちに轟沈してしまった。劣勢に立たされた旧幕府軍は、この光景に勇気を得、陸軍奉行・土方歳三は手勢を率いて一本木を目指し、弁天台場の救援を目指したが、馬上を狙撃され絶命してしまった。

翌12日、五稜郭内で衝鋒隊の隊長・古屋佐久左衛門と隊士たちが最後の酒宴を開いていた。そこへ、新政府軍の旗艦・甲鉄が五稜郭の楼閣目がけて艦砲を発砲した。これが五稜郭内に命中し、隊員らは死傷した。

箱館戦争は、5月16日の「千代ヶ岱陣屋の戦い」を最後に、榎本武揚は新政府軍に降伏した。五稜郭は、箱館戦争の主要部隊であった。

(『激闘箱館新撰組・箱館戦争史跡機構』、近江幸雄、三和印刷、平成20年を参照とした。)

【五稜郭写真集】
  
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五稜郭の図(市立函館博物館特別展図録より) 五稜郭公園内から五稜郭タワーを望む
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五稜郭奉行所、後に榎本軍本部となる。(復元模型) 五稜郭の石垣
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五稜郭から入口方向を望む 五稜郭外堀 

2.四稜郭

 五稜郭から北東側に進み、鍛冶・神山地域を通り、なだらかな丘陵地帯を4キロメートルほど行くと四稜郭がある。土塁の形状は郭を四方に配し、さながら蝶が羽を広げたような形をしている。大きさは、東西に約104メートル、南北には約65メートル(どちらも最大幅)の四稜形である。上幅2.7メートルの土塁は、延長約285メートルで郭内を囲んでいる。土塁の外側には深さ0.9メートルの空堀が延長約245メートル続いている。四稜郭の総面積は、約3,600平方メートルである。

 四稜郭築造の目的は、旧幕府軍の本拠地五稜郭の背後を防禦することにあった。明治2年(1869)4月、兵士200人と付近の住人約100人を徴用して、昼夜兼行で数日間のうちに完成させたという代物であった。従って、婦人たちも駆り出され、炊き出しなどに協力させられたという。

 名称を「新五稜郭」ともいったようである。徳山藩士の記録「奥羽並蝦夷出張始末」には、フランスの仕官ブリューネが築いたとある。ブリューネは防禦陣地の構築・砲台の設置と練兵が主要任務であった。

 四稜郭での戦況について述べておく。5月11日、箱館市街総攻撃の日の早朝、徴収・岡山・徳山・福山の各藩の兵千人が攻撃を開始した。村人たちが物陰に隠れて見ていると、刀を打ち合う刃の光が朝日にキラキラと光り、喊声と怒声が聞こえてきたという。岡山藩の記録では、「神山村の新五稜郭と称し候ところに、北手より当藩の精鋭隊である一小隊を進撃させた。また東の山の峰通りより、当藩三番隊一小隊が攻撃致し候ところ、賊軍は大小砲を厳しく立て…」(現代語訳、筆者)と、激しい攻防を述べている。

 この戦闘における新政府軍・岡山藩の戦死者は三名で、受傷者は六名であったという。一方、旧幕府軍の死者は氏名不詳の三名だけで、退路を断たれることを恐れて死体を残して撤退したという。

 ところで、四稜郭の発見は意外と新しく、昭和3年に函館商業高校の教諭が東照宮の由来を調査中に偶然発見されたのだという。その後も掲示板が無ければ通り過ぎてゆくような土塁だけが残っていた。後に亀田町(現・函館市)が郭内外の復元と整備に努め、今では箱館戦争と五稜郭を語る時、四稜郭は規模こそ小さいが、その話題から外せない建造物になっている。

【四稜郭写真集】
  
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四稜郭空撮写真(函館市教育委員会) 四稜郭入口部
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四稜郭築堤 四稜郭内部
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四稜郭内部  

3.一本木関門

 一本木という地名は、現在の函館市若松町辺りであるという。幕末当時、松浦武四郎の『蝦夷日誌』によると「亀田箱館ノ境也」とあるという。この頃には、箱館の入り口になっていた箇所である。現在はこの一本木の地に「土方歳三戦死の地」として函館福祉センター前庭に「一本木関門」の復元模型と「土方歳三最期之地碑」が建立されており、供花が絶えない。

 明治元年(1868)10月26日、五稜郭へ無血入城した旧幕府軍は、諸行政に乗り出すが、何せ財源がない。そこで苦肉の策として、一本木から大森まで木柵を張り、「一本木関門」とした。この関門を通り箱館と亀田の間を往来すると、通行税として一人百六十文が徴収された。名目はあくまでも警備上の措置であるが、地域住民からは頗る評判が良くなかった。

 明治2年5月11日、新政府軍からの箱館市街総攻撃があった。この日の戦いで、激戦の舞台となったのはやはり一本木関門であった。戦いの様子を須藤隆仙先生の「箱館戦争資料集」から、関係分を抜粋しながらその概要を見ていくこととしよう。

① 政府軍の『慶応出軍線状』から

 「薩長さっちょう其余そのよへい箱館はこだてぞく攻撃こうげきすればつい五稜郭ごりょうかくとうこう追討ついとうして一本木いっぽんぎいたり、これかためんとす。ぞく津軽陣屋つがるじんや(千代ヶ岡陣屋)にこもりて防禦戦ぼうぎょせんとす。」

② 軍方箱館戦争記録『新開調記』から

 「五月ごがつ十一日じゅういちにち官軍かんぐん徳川勢とくがわぜいおいまく鉄砲打てっぽううちたてめければ段々追打だんだんおいうち大町おおまちより内澗うちまちょう南部なんぶ陣屋じんや地蔵じぞうまちおいまくりつい一本木いっぽんぎ関門かんもんまでめる。」 とあり、箱館山裏側から上陸しての奇襲が成功し、市内を縦断した様子が伺える。

③ 幕軍一連隊、石川忠恕の『説夢録』から

 「伝習隊でんしゅうたいは、地蔵じぞうまちあたりにたたかりしに五稜郭ごりょうかくなみ千代ヶ岡ちよがおか砲台ほうだいよりきたれる応援おうえんへいあわ奮戦ふんせんせしが我軍わがぐんついやぶ一本木いっぽんぎ退たたかきて亀田かめだ新道しんどういた防戦ぼうせんす。」

④ 義隊、丸山利恒『北州新話』より

 「陸軍りくぐん都督ととくひじかたとしぞうは、額兵がくへいくに神木しんぼく士官隊しかんたいひきいて進撃しんげき一本木いっぽんぎ関門かんもんやぶ函館はこだてる。しかれどもてきつよ土方歳三ひじかたとしぞう異国いこくばしあたり。」

⑤ 台額兵隊の荒井宣行「『蝦夷錦』より

 「一本木いっぽんぎニテモ陸軍りくぐん奉行ぶぎょうなみ土方ひじかたとしぞう三十余人さんじゅうよにん戦死せんし

⑥ 選組隊士石井勇次郎『戊辰戦争見聞略記』より

 「奉行土方君ぶぎょうひじかたくんかならずあしさくとどめントほっスルニみなさくギテク、われ奉行ぶぎょうやくス、かのちからのごとくシ テとどまザルものなんソヤ、つい千代ヶ岡ちよがおか退しりぞク、陸軍奉行添役りくぐんぶぎょうそえやく大島おおしまとら安富やすとみさいたすけこれフ、かれいわく奉行ぶぎょう土方ひじかたくんまたぐさくそばてき狙撃そげきスルところなりストク。」

土方戦死の状況を側近が語った大きな証言である。

 箱館港内での海戦は、唯一航行可能な蟠龍艦の活躍で新政府軍朝陽と丁卯を相手に砲戦し、蟠龍の一弾が朝陽の火薬庫に命中し瞬時に轟沈した。これを見て陸上の幕軍方は狂喜乱舞したのであった。しかし、自艦も被弾して大町の浅瀬に乗り上げ、松岡盤吉外乗員は弁天台場に入った。また、回天は航行不能のため沖之口にて留まり、砲台として砲戦を行い遂に大破して、一本木を経て五稜郭に入った。戦将は荒井郁之助である。

 一本木関門での攻防は、5月11日1日で終わった。

【 一本木関門写真集】
  
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一本木関門(復元模型) 一本木関門(復元模型)
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一本木関門(復元模型) 土方歳三慰霊碑

4.千代ヶ岡陣屋

 「千代ヶ岱陣屋」ともいう。亀田にほど近い所から、縁起を担いで地名を千代ヶ岡にしたものと思われる。今ではあまり目立たないが、この辺りは丘陵地で市街と港を一望に見渡せる要衝地であった。現在付近一帯には、中島小学校、千代ヶ岱球場、同陸上競技場などがある。

 前幕領時代(1802-21)には、仙台藩の陣屋であったが、安政2年(1855)に津軽藩の陣屋となった。東西130メートル、南北150メートルの高さ4メートルの土塁と堀に守られていた。幕府の「大政奉還」が行われると、津軽藩は陣屋を空き家にして帰国してしまう。

 明治元年(1868)5月に、清水谷公考が総督となって五稜郭に入り、箱館裁判所という行政府を開いたが、半年後の10月20日には榎本鎌次郎率いる旧幕府艦隊が鷲ノ木村(現・森町)に上陸して来た。折から新政府軍には、福山・大野藩も応援に入っていた。

 七飯峠下において両者の戦端が開かれ、箱館戦争が始まった。当初は旧幕府軍が圧倒的に強く、10月26日には旧幕府軍は五稜郭に入城している。後に松前藩とも戦い、福山城、館城を陥し、エゾ地を平定してしまった。

 翌明治2年4月、新政府軍は乙部に上陸し、江差・松前・木古内などを奪還し、徐々に箱館に迫って来た。そしてついに、5月11日に至って箱館市街地の総攻撃を開始したのであった。土方歳三は、この千代ヶ岡陣屋にて新撰組大野右仲と最後の会話を交わし、一本木関門に向かったという。この後に歳三は戦死するのであった。

 千代ヶ岡陣屋の守将は浦賀奉行所の与力を務めた中島三郎助・恒太郎・英次郎父子と浦賀から同行した同志の五十余名であった。三郎助は、箱館奉行並に就いている。箱館戦争最後の決戦の日は、5月16日であった。その前日、本営の五稜郭から帰城を迫る連絡を受けながら、中島三郎助以下は「徳川三百年の恩顧に報いる」として、これを無視したのであった。16日午前3時に新政府軍の攻撃が開始された。互いに砲戦に及び、新政府軍は表門(正門)に迫った。門前にて白兵戦となった。これを皮切りに、他の兵士は土塁を乗り越えて陣屋内に入り、諸所で白兵戦を展開している。午前4時頃には守兵の一部が敗走する。しかし、中島三郎助は胸を撃たれて堀の内で死に、恒太郎は刀を振るって敵中に入る。英次郎は脇腹を撃たれて大手前に死す。浦賀から来た同志たちもみな立派に戦ったという。

 箱館戦争の旧幕府軍殉難者慰霊を祀る「碧血碑・碑前慰霊祭」は、6月25日に執り行われるが、これは旧暦5月16日の「千代ヶ岡陣屋陥落の日」としているのである。昭和49年5月19日に、旧松川中学校前のグリーンベルトに「中島三郎助父子最期の地」碑が建立された。

【 千代ヶ岡写真集】
  
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千代ケ台御場所地面 御陣会割合図 千代ヶ丘陣屋の概要(御陣会割合図等から再現) クリックで拡大
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中島三郎助父子らが眠る千代ヶ岱陣屋跡同地に建つ中島父子の慰霊碑
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千代ヶ岱監獄所
(明治18年(1885)千代ヶ岡陣屋は、千代ヶ岱監獄所になった。)

5.弁天台場

 外国からの侵略に備えるために北方気美の要害として、五稜郭・弁天台場の築造を箱館奉行所が幕府に進言し、これを認めて幕府は着工に踏み切った。箱館港の入り口を守るのに適切な位置にある台場であった。

 設計監督は五稜郭と同じ、蘭学者の武田斐三郎であり、埋立・土塁工事は松川弁之助が、石垣工事は井上喜三郎が担当した。着工は安政3年(1856)で、竣工は足掛け8年目の文久3年(1863)であった。周囲711メートル、高さ11メートル、砲門の備えは15門で、堅牢無比な砲台であった。「弁天」という名前は、この岬に弁財天が祀られていたからであったが、現在は台場の跡形も、当時の勇姿も絵画と写真でしか推し量ることしかでいないのである。

 明治2年(1869)の箱館市街地一斉攻撃が始まる少し前、4月後半からの、弁天台場の攻防を見てみることにしよう。まず4月24日の攻撃である。朝7時30分、新政府軍の軍艦が港内に侵入し、9時45分には旧幕府軍の弁天台場との砲戦も一段と激しくなる。10時30分に弁天台場よりの発砲が続き、砲弾雨の如しであった。11時40分、新政府軍の艦船はたまらず港外に後退した。午後2時20分に再び新政府艦は港内に突入するが、弁天台場からの砲撃が激しく、16時20分には新政府艦は木古内方面、泉沢に帰航した。同25日、26日も、海戦があり、29日には、新政府艦春日が弁天台場を砲撃した。

 5月1日、新政府艦の甲鉄以下5艦が箱館港内を攻撃する。3艦は海上封鎖をするも、幕艦3館と海戦が始まった。幕艦は港外に逃走するも、新政府艦がそれを追跡する。しかし弁天台場から80斤巨砲を打ち込み、同時に幕艦が突然方向を転じて攻勢をかけて来たため、新政府艦はたまらず敗走した。この戦いで幕艦蟠龍は一時航行不能に陥り千代田は座礁後新政府軍に分捕られてしまった。同2日、弁天台場の砲撃により、新政府艦甲鉄は被弾した。

 5月3日、港内に侵入する新政府軍の軍艦を、迎撃しようとした弁天台場の砲手が発砲しようとしたが、火口に釘が打たれていた。急遽鍛冶職を呼び修理に当たったが、復旧したのは夜に入ってからであった。台場を守備する新選組の必死の捜査が始まり、谷地頭に潜伏していた新政府軍・在住隊の齋藤順三郎を発見して捕まえた。斉藤は台場前で斬首の上、3日間晒し首の刑であったという。

 同7日、甲鉄艦の砲弾が回天に命中し、6人が戦死した。弁天台場にも放射している。

 同11日、箱館市街地一斉攻撃の日であった。港内の旧幕府艦は蟠龍のみとなってしまった。蟠龍は縦横無尽に活躍し、一発の砲弾が朝陽間に命中し、瞬時のうちに沈没した。死傷者は53人であったという。市民の記録によると「台場より大砲打出し、山川も崩るるばかり、玉の飛事数知れず、其恐しき事、言語道断」とあったという。

同12日、台場に向けて海陸からの発砲が続いた。守備兵は壁に拠り、持てる限りの力を尽くして大砲・小銃を連発したので、政府軍は弁天台場に近づくことが出来なかった。

 13日も海陸から新政府軍は迫った。砲声は雷鳴の如く轟き、守備兵も固く守り堪えた。この台場の唯一の欠点は、井戸が一つより無く、飲料水に乏しいことであった。大亀を用意していたが、艦砲射撃によって破壊され、米あれど焚くことも出来ず、傷兵は傷口も洗えず困難をきたしていた。守備兵の戦死者は、栗原仙之助、津田丑五郎、長島五郎作、乙部剛之進であった。

 この日新政府軍の田島圭蔵が台場に赴き、懸命に恭順を説いた。これに対し、松岡盤吉、相馬主計が五稜郭へ行き、取次をした。15日の昼になって、箱館奉行・永井尚志からの命を受け、新政府軍に降伏を申し出る。この事により、相馬主計が新撰組最後の隊長といわれる。弁天台場で降伏した人たちは、新撰組隊士他百人余りであった。さすがの新選組も、飢えには勝てなかったのである。

 弁天台場は、明治29年に、函館港改良故事に伴い、壊されてしまった。なお当時使われていた石垣の石材は、現在も函館漁港の護岸に使用されている。そのため、護岸の石材をよく観察すると、弾痕の穴がみられる。

【 弁天台場写真集】
  
写真箱館弁天崎御台場図
市立函館博物館特別展図録
「五稜郭築造と箱館戦争」から
(平成26年度)
箱館弁天崎御台場図
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弁天砲台(明治15年11月頃のパノラマ写真から) 弁天砲台(慶応年間~明治6年頃の写真)
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明治6年~20年頃の撮影(パノラマ写真から)明治15年11月頃の撮影(パノラマ写真から)
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御台場の石垣は、今も函館漁港の護岸に使われている 御台場の石垣は、今も函館漁港の護岸に使われている 
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かつての石垣には、箱館戦争時の弾痕のような跡が無数に見られる

6.箱館病院

 箱館病院は、後幕領時代の文久元年(1861)に設置された「函館医学所」が前身であったという。当時の山上町(現・弥生町)にあり、移転前の函館病院西寄りに位置していたという。

 旧幕府軍が五稜郭に無血入城して程なく、榎本武揚は高松凌雲に対して、箱館病院を開設し、その頭取に就任するように要請した。凌雲は、榎本に病院の運営には一切口を出さないこと、全ての権限を自分に一任することを前提に引き受けたという。そして早速に「病院心得」を制定した。その内容は、病者への取扱いと看護人の心得であったという。そして戦傷者は敵味方を問わず治療するという、日本では初めての赤十字活動を取り入れた運営方針とした。これには当の患者同士の方が面食らっていたが、凌雲は、どちらにも毅然とした態度で接していたという。

 病院は、五稜郭入城後すぐに建設を開始した。明治元(1868)年11月22日に着工し、同2年2月23日には2階建ての病棟が2棟完成した。しかし、すぐに手狭となり、3月の宮古湾海戦、4月の松前攻防による入院患者の増加により、高龍寺を分院として使用することとした。そして以後は、さらに戦況が激化したため重傷者を本院と分院に入れて、軽傷者は五稜郭に移したという。

 令和元年に行われた市立函館博物館の特別展「箱館戦争終結一五〇展」では、高松凌雲が箱館戦争時に立てた病院2棟の場所を愛宕神社と弥生小学校の間近くであるらしいと突き止めている。その時の様子を高松凌雲は、自著に次のように記していたという。

「因て傷者も亦日々に多き加う。然るに、病院は甚狭隘にして、意の如く患を収容すること能はず。各所に分院を設くと雖ども不便尠からず。遂に意を決して二階建の病院二棟を新設す。明治元年十一月二十二日、大工助右衛門に命じて工を起こし、同二年二月二十三日に至りて落成す。直に分院にある病を一處に集合して、漸く病院の体裁を為すを得たり。」
(「博物館展示パネル」より)と述べている。

 5月11日の箱館市街総攻撃の日には、遊撃隊の人見勝太郎が本院に立ち寄り「患者を頼む」と言い置いて出掛けたという。また、同日10時頃には薩摩藩と久留米藩が乱入してきたが、凌雲の筋道の通った説得に納得し、病院玄関の上り門前に「薩州改」の札を掲げて、安全を保障したという。

 同12日、薩摩藩から、入院中の会津藩遊撃隊隊長・諏訪常吉に、降伏勧告の仲介を依頼したが、しかし諏訪は重傷でその役目を引き受けられず、病院長の高松凌雲と小野権之丞医師に委ねた。

 英国軍艦の医師クエンは、箱館病院の活躍を「少人数の医師で多くの患者をよく治療していた」と称賛していた。

 『小野権之丞日誌』から「二年三月八日土方より手紙。四月二十日伊庭重傷。五月一日新撰組津田手負い。五月九日土方来る。五月十四日古屋死す。十六日諏訪死す。」名のある勇者が次々と世を去っていった。

【函館病院写真集】
  
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高松凌雲が建てたといわれる2階建ての2棟の「箱館病院」。
「箱館戦争図」に描かれた「箱館病院」と思われる建物
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明治2年4月頃の撮影と思われるパノラマ写真に載った「函館病院」と思われる建物
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令和元年の市立函館博物館の特別展「箱館戦争終結一五〇展」では、高松凌雲が箱館戦争時に立てた病院2棟の場所を愛宕神社と弥生小学校の間近くであるらしいと突き止めている。(「特別展の展示パネル」から)
場所は「元町公園」より南東方向の一角
この住宅地の裏側あたりか。
                     

7.「傷心惨目」の碑

 この碑は明治13年(1880)に、船見町高龍寺境内に旧会津藩出身者の有志によって建立されたものである。

 明治2年5月11日。頭書の高龍寺は現在の弥生小学校の位置にあり、箱館病院の別院として使っていた。そこへ突如として、弘前藩・松前藩の兵士が乱入してきた。驚いた医師や患者十数人を、彼らは殺害し、あげくの果てに放火して立ち去ったのである。此の時重症者であった奥山八十八郎は、切腹して果てたという。さらに分院調役の木下晦蔵(かいぞう?)も殺害された。

碑の表面には以下のように書いてある。

「傷心惨目

撰宋岳飛真蹟李華古戦場文学勒石以弔焉  

会津残同抱共建

明治十三年」

【解説】

高龍寺は、明治12年(1879年)に現在地に移転。翌13年に旧会津藩の有志が、この碑を建てて、斬殺された藩士を供養したものだと伝えられている。しかし、この日の戦いでの会津出身者はいないので、この「傷心惨目之碑」は、函館在住の会津関係者が戊辰戦争全体の終了から13回忌目の霊を弔うために建てたとする説もある。いずれにしても戊辰戦争で世を去った同藩の人々を弔う碑とし、旧藩士の心の拠り所であると共に、箱館戦争の事件簿でもあるのである。

碑面「傷心惨目」は、中国、唐の文人李華の作で「古戦場を弔う文」からとったものである。文字は中国南宋の忠臣岳飛の真跡を写したものである。

(了)  

【傷心惨目写真集】
  
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函館の「国華山・高龍寺」高竜寺の一角に建てられた「傷心惨目碑」

【箱館・榎本軍の群像・写真集】
   
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荒井郁之助 榎本武揚 永井玄蕃
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土方歳三 松平太郎 中島三郎助
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榎本対馬道明 川村録四郎 人見勝太郎
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大鳥圭介 甲賀源吾  

R.03.01.09

20.箱館戦争に参加した碧い目のサムライたち

函館碧血会

(※)本文書は、「箱館戦争と碧血碑」(函館碧血会・木村裕俊、三和印刷、2018年)を参考にまとめたものです。

1.ブリュネの決意

明治元年(一八六八)から同二年(一八六九)の箱館戦争に、「碧い目のサムライたち」も参加していたことはご存じであろう。彼らは箱館戦争が始まる二年前に、フランス国から日本にやってきて、徳川幕府の幕臣たちに近代的な軍事教育を行い、西欧諸国に開国した徳川幕府の軍隊を近代的な軍制改革を備えた組織に変えることを目的にやってきた軍人たちであった。

フランスから来日した軍事顧問団は、総勢十九名であった。隊長はシャノワーヌ参謀大尉で、副隊長にジュール・ブリュネが当たった。ほかに士官四名と下士官十三名で構成されていた。軍事顧問団一行が日本に付いたのは、慶応二年(一八六六)十二月八日であった。横浜に到着後すぐに幕臣たちへの軍事訓練が始まり、丁度一年が過ぎようとした頃の、慶応三年十月に「大政奉還」が行われ、徳川幕府側と薩長連合の政治的な綱引きが続いていた。同年十二月九日に薩長連合を中心とした討幕派が朝廷内でクーデターを起こし「王政復古の大号令」を発して徳川幕府の廃絶を求めたのである。結局この動きが「戊辰戦争」への引き金となったのであった。

こうした動きによりフランスの軍事顧問団は、本国からの命令もあり、日本から退去することを決めたのであった。しかしこの時、副隊長のブリュネと下士官四人はそのまま日本に留まり、榎本ら旧幕府軍を支援することとしたのであった。そしてブリュネは、本国のナポレオン三世と隊長のシャノワーヌに、フランス軍籍を離脱する辞表を書いて提出したのであった。

ジュール・ブリュネ肖像ブリュネはなぜ榎本らの旧幕府軍を応援したのであろうか。エゾ地に行く前の榎本とブリュネの接点は、ほとんど見つかっていない。ただ、ブリュネは榎本がオランダに留学した新しいタイプの武士であることを知っていたし、榎本もまた幕府の古い軍事力を西洋の新しい教練によって劇的に生まれ変わった軍隊になると期待していたのだろうと思われる。おそらく二人の間には、古い組織を新しいものに変えていきたいという共通認識のようなものがあったのだろうと思われるのである。

榎本とブリュネが最初に出会った時、ブリュネは榎本の態度に感動した。慶応四年(一八六八)一月に「鳥羽伏見の戦い」が起ったが、幕府軍は簡単に敗北してしまった。これはどういうことか、榎本は開陽丸を降りて大坂城に戦況を聞きに向かったところ、入れ替わりに将軍慶喜が船長の榎本を置き去りにして開陽丸で江戸に帰ってしまったのである。この事態に榎本は大いに憤慨したが、すぐに気を取り直し誰もいなくなった大坂城を整理してから、富士山丸という艦船で江戸に帰った。このとき榎本は、同じように江戸に向かおうとしていたブリュネ一行と同じ戦艦で帰ってきたのであった。ブリュネはこの時、すべての行動を見ていたのである。純粋に戦力評価をして作戦を提示しようと大坂城に来た榎本と、誰にも打ち明けずにわずかな人数で逃げるように江戸に帰ってしまった将軍一行。そして機能しなくなった幕府の上層部だけが残り、組織がバラバラになった大坂城では、自主解散のように自然消滅して誰もいなくなった。榎本は大坂城に一人残って片付けを済ませてから、富士山丸で江戸に向かった。このときの榎本の態度には、何の外連味(けれんみ)も見せなかった。ブリュネが聞いていた日本の「武士道」の態度そのもののように感じられたのであった。

後にブリュネが榎本の申し出を引き受けようとした理由は、ナポレオン三世とシャノワーヌ隊長の辞表と手紙にも書かれていたが「旧幕府軍の中に自分が軍事教練した士官や下士官が大勢いて、今北に向かおうとしている彼らには自分が必要なのだという自負があった。またもう一つには薩長連合の後ろ楯にイギリスやアメリカがいて、これを見過ごすとフランスの国益に悪影響をきたす」との考えから、榎本軍に参加して日本での諜報活動を続けたいと希望していた。そしてこの手紙の内容が、後にフランス本国で軍事裁判にかけられたブリュネを救ったのであった。これは紛れもないブリュネの本心であるが、しかし他にもブリュネを揺さぶり日本に残ることを決心させたきっかけがあったのではないだろうか。榎本の体内から発せられる「武士道」という独特の気力に感銘し、自分もその中に参加したいという気持ちが大きくなっていったのではないだろうか。シャノワーヌ大尉への手紙にも「日本人の気高い精神に同調してしまった」のだ、と表明している。ブリュネが箱館戦争に参加することを決心したのは、日本の武士たちの「義」の心に感銘して、フランスの「士道」で応えようとした「碧い目のサムライ」の心意気だったのかもしれない。

ブリュネは当初、榎本軍に一人で参加するつもりでいた。しかしどうしてもブリュネと行動を共にしたいという下士官のカズヌーヴがいた。やむを得ず承知したのであるが、仙台でも三人の下士官、フォルタン・マルラン・ブッフィエが同行したいと願い出てきたて、五人になった。箱館に着いてからもうわさを聞いて訪ねる者があった。海軍を脱走してきたというニコールとコラッシュ、元海軍で民間人のクラトー、元陸軍のトリポー、商人のプラディエらであり、最終的に箱館でブリュネのもとに集まったフランス人は、本人も含め十名になった。


【ジュール・ブリュネ肖像】

ブリュネが開陽丸に乗り込んだ時のエピソードが面白い。この日イタリアの公使館で仮装舞踏会が行われていた。ブリュネとカズヌーヴ伍長がサムライに扮装して参加した。そして舞踏会後にそのままの格好で脱走し、榎本軍に合流したという。何とも締まりのない侍だったような気がする。

2.ブリュネの役割と作戦

 榎本軍は、品川沖から何度も新政府軍に交渉のアプローチをかけていた。「このままでいけば旧幕臣のほとんどすべてが職を失い、大問題になってしまう。そのため、旧幕臣で希望するものはエゾ地で開拓をし、北方での防備に着くことを許可出来ないか。」このことを何度も繰り返し要望してきた。江戸城開城後に品川沖から直接要望しているし、北に上る直前に勝海舟らに仲介を頼んで書簡を預け置いてきた。仙台でも新しくやってきた新政府の奥州総督府に出しているし、箱館に来てからも五稜郭の清水谷総督府や松前藩にも出して協力を呼び掛けている。何度も何度もあきらめずに、同じ内容の手紙を粘り強く出し続けていたのである。時には、箱館に立ち寄った外国艦船の艦長をつてに、新政府への要望を出し続けた。しかし、新政府側は、何度渡そうとしても、全く相手にしてこなかった。ブリュネは新政府軍の思惑として、榎本軍を何が何でも降伏させ、新政府側の力を示したいという考えがあるのだと感じていた。そしてその裏にはイギリスやアメリカの力が暗躍しているのではないかと考えていた。

 ブリュネは榎本からの要請を受けて、新政府軍が攻め込んできたときの、箱館での旧幕府軍の軍事態勢を検討することとした。具体的には、旧幕府軍の軍事組織をフランス式連隊に編成し直し、訓練を続けることが第一であり、その次に箱館その近郊の守備体制を固め、新政府軍のエゾ地攻撃に対処する作戦と防御施設の構築をすることであった。

 年が明けて明治二年(一八六九)になった。開陽丸が江差沖に沈んで残念な思いはあるが、勝負は今年の春だと思っていた。雪解けとともに箱館の対岸青森に、新政府軍の大軍が大挙押し寄せてくるだろう。今榎本軍はエゾ地に三千人の兵力がある。新政府軍が旧幕府軍に勝てるだけの兵力を集めようとすると、倍かそれ以上の兵力を用意することになるだろう。おそらくは八千か一万ぐらいの兵力にはなるだろうと思った。

 ブリュネは榎本に次のような提案を行っている。いま旧幕府軍、三千人の兵士のうち半分はすでに徳川幕府体制の時にフランス軍の軍事訓練を受けた伝習性たちである。残った半分の兵士たちも陸軍隊や遊撃隊などの旧幕府義勇兵であり、伝習性たちによって指導を受けている。つまり、直接・間接的にフランス軍の基礎は学んでいることになる。だから旧幕府軍には、次の段階である新しい軍隊組織を作り、フランス式の厳しい軍律を理解させなければならない、と訴えた。

 旧幕府軍の陸軍組織の三千人を、約八百人ずつの四つの連隊に分け、その連隊を「列士満(れじまん)」と名付けた。フランス語の「連隊」をもじったものといわれる。この「列士満」のそれぞれの連隊長に、日本人とフランス人の各一名を配置することとした。第一レジマンの連隊長には、フランス軍のフォルタンを連隊長司令官とし、大隊長に伝習士官隊の滝川充太郎と遊撃隊の伊庭八郎を指名した。第二レジマンには、伝習歩兵隊の本田幸七郎とマルランを連隊長司令官とし、同じ伝習歩兵隊の大川正二郎と一聯隊の松岡四郎次郎を大隊長に指名した。第三レジマンは、カズヌーヴを連隊長司令官とし、陸軍隊の春日左衛門と額兵隊の星淳太郎を大隊長に指名した。そして第四レジマンは、ブッフィエと古屋佐久左衛門を連隊長司令官とし、衝鋒隊の永井蠖伸斎(かくしんさい)と天野新太郎を大隊長にそれぞれ指名した。そしてこの連隊の総司令官は「陸軍奉行」の大鳥圭介であり、補佐が「同奉行並」の土方歳三となるのであった。

 以後、フランス人の連隊長司令官によって統制された「列士満」の隊員たちは、フランス軍事顧問団の元で毎日軍事訓練の調練をすることとなったのである。場所は、箱館から一里(約一キロメートル)ほど離れた亀田村の、五稜郭要塞で行っていた。


 ブリュネは旧幕府軍三千人の兵力で、エゾ地の守備範囲を固める必要があると考えていた。そのためには、道南の広域範囲にしっかりとした防衛陣地を作っておく必要があった。峠下台場、大沼・小沼間の台場、七重浜台場、鹿部台場、川汲台場などがそれに当たり、箱館近郊にも四稜郭と東照宮に権現台場を作った。


 蝦夷地に春が来て雪解けが終わるころ、戦闘が開始されるだろうと思っていた。新政府軍が上陸し、侵攻を強めるのは、江差、鷲ノ木、松前、室蘭、大沼、そして箱館などが考えられる。特に箱館は、五稜郭要塞と並んで重要な拠点となっている。そのため、箱館には二百人の兵力を常駐させておく必要がある。また、周辺の要塞や駐屯地にも兵力を配置し、それに沿岸地帯や山中の峡谷にも目を配らなければならなかった。こうしたことを考えると、配置する兵力だけで二千人以上になってしまうのである。


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【写真】旧幕府軍に参加したフランス軍事顧問団と撮影
(函館中央図書館蔵)   
後列左から、カズヌーヴ、マルラン、福島時之介、ホルタン
前列左から、細谷安太郎、ブリュネ、松平太郎、田島金太郎

3.ブリュネと日本の将校

 旧幕府軍には優秀の人物が多いとブリュネは考えていた。中でも「ケイスケ・オートリ」(大鳥圭介)は素晴らしい。彼は頑固だがとても優秀だと思っていた。彼は陸軍のジェネラル(総司令官)であり、日本での職名は「陸軍奉行」である。そしてそれを補佐するのが「トシゾー・ヒジカタ」であった。彼は「陸軍奉行並」という職名であった。かつて京都で、徳川幕府新選組の副長を務め、薩長軍など討幕派から恐れられた人物であった。このほかにもブリュネの心に残る人物はいた。中でも、海軍の荒井郁之助であった。「海軍奉行」であった荒井は、オランダで軍事教育を受け、高等な海戦戦術を身に着けていた榎本の戦術も理解出来ていたという。旧幕府軍には、このように優秀な人材がそろっている。今回の作戦が成功すれば、たとえ数倍の敵兵が来ても、持ち応えることが出来るだろうと考えていた。仮に砲術戦が始まっても、千代ヶ岡陣屋の中島三郎助のような砲術に詳しい人物もおり、頼もしく感じていた。

4.新政府軍の上陸と反撃

 明治二年(一八六九)四月九日、新政府軍は乙部沖にやってきて、戦闘が開始された。旧幕府軍は上陸を阻止しようとするが、昨年の沈没事故で開陽丸を失い、制海権を大きく失った旧幕府軍は、最初から不利な戦いを強いられていた。新政府軍は箱館に向けて四つのルートを進みながら、制圧されていた地域を奪還していった。第一のルートは、江差から松前方面に向かう海岸線の「松前口」であった。第二のルートは、上の国から木古内に向かう山越えの「木古内口」である。第三のルートは、乙部から厚沢部・鶉を経由して大野に向かう「二股口」である。そして第四のルートは、乙部から内浦湾側の落部を目指す「安野呂口」であった。

 旧幕府軍は、どのルートでも多勢に無勢で、思うような戦いが出来ず、不利な戦いを強いられていた。唯一、土方歳三の指揮下にあった三百人は、大野「二股口」で新政府軍を苦しめていたが、「木古内口」が破られたことから土方隊は「挟み撃ち」になる危険性が生じたため、やむを得ず五稜郭に撤退したのであった。

5.矢不来の戦いとブリュネの帰国

 四月二十九日に至って、木古内口で敗北した旧幕府軍は、矢不来まで撤退して体勢を立て直そうとした。しかし、新政府軍は矢不来の陣地をめがけて、海と陸から攻め込んできた。旧幕府軍は土塁を築き直して応戦したが、防御しきれず、敗走してしまった。

 この矢不来の戦いを境に、敗戦を確信したフランス軍参謀のブリュネは、箱館港に停泊していた自国の軍艦に書簡を送り、助けを求めたのである。フランス軍人のカズヌーヴとブラジーエの二人が負傷し、かなり危険な状態に陥っていたのである。

 フランス軍艦の艦長から許可をとったブリュネは、これ以上榎本の足手まといになることを避け、榎本に日本を去る決意を告げた。榎本もまた、ブリュネにこれまでの協力に感謝し、これ以降の行動は全てブリュネの判断に任せたのであった。

 ブリュネはフランス軍の軍艦で箱館を去った。そしてほどなく横浜からフランス本国に強制送還されている。本国に連れ戻されたブリュネは軍事裁判にかけられたのだが、彼がフランス軍籍を離脱する際の日本での置手紙が新聞に掲載されたことで、世論の支持が一気に高まり、結果的にブリュネは元の砲兵隊に復帰することが出来たのであった。

 その後のブリュネについて少し話しておこう。フランス陸軍に復帰したブリュネは、その後普仏戦争に参加して一時は捕虜になるなどの経験もしたが、陸軍大臣にまで上り詰めたシャノワーヌの元で、陸軍参謀総長となって活躍したという。また、明治二十九年(一八九五)に日本に大きな貢献をもたらしたとして、シャノワーヌとブリュネにそれぞれ日本国の勲一等と勲二等が授与されている。シャノワーヌとブリュネは、フランスで日本陸軍の留学生の世話をずっと続けていたのだという。こうした活動に応えたものであろうが、これは外国人に授与される勲章としては、最高位のものであった。当時明治政府の閣僚となっていた榎本武揚の上奏があったことも大きな影響を与えたようである。榎本にすれば、ブリュネも含め、フランス国への恩返しであったのかもしれない。

 今もパリ郊外のブリュネの末裔が住む家宅には、日本の大君(将軍)から拝領した日本刀が現存しているという。

(了)  


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