2020.12.18追記

コラム

【コラム】柳川熊吉について

碧血会 会員 福島 誠

晩年の柳川熊吉翁

 写真は『函館蕎麦史』より
(函館麺類飲食業組合発行 加藤昌市編著 昭和62年)

 私が碧血碑に関心を持ったのははこだてピースマップという小冊子で柳川熊吉のことを知ったからです。
 「何それ、浪花節の主人公みたいな話」と思っていたら、その後本当に浪花節になっていたことを知りました。

浪曲になった柳川熊吉

◆廣澤虎造のSPレコード(全4枚中3まで)函館碧血碑(テイチク1941年)
 盤質が悪く雑音が多いのが残念です。原作は時代小説の大家「長谷川伸」で昭和16年に出版されています。

◆新作浪曲 東家浦太郎の「五稜郭始末記」
 作者の笹井邦平さんは函館出身の邦楽研究家。
 平成十二年に新作浪曲「五稜郭始末記」が国立演芸場(日本芸術文化振興会)が選考する「第1回大衆芸能脚本募集」の佳作となり、以後、浪曲師「東家浦太郎」さんの持ちネタとなった。お弟子さんの東家一太郎さんも継承しており、来年(2021年)には函館でお披露目できる予定。
(なお、一太郎さんバージョンでは実行寺(法華宗)のお坊様が「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えるよう改めてます)

熊吉さんの生涯

 柳川熊吉さんにはさきの浪花節など「民衆的ヒーロー」としてさまざまなエピソードが流布していますが、その中には根拠不明なものも多く、どこまで信じてよいのかわかりません。
 本人は「文字の人」ではなかったので、自伝などを書き残してはおりませんでした。

 晩年の聞き書きが二種類あり、一つは「日本及日本人 明治四十五年五月十五日号 第五八二号」の特集「上野及び函館戦争の懐古」の一つとして掲載された「函館碧血碑話」で筆者は桑原雷晏。碧血会が発行する「復刻版碧血碑物語」に収録されています。

 もう一つは以下に転載する「柳川熊吉翁」という函館毎日新聞の連載で、記者名はわかりません。この連載は、以前、函館戦争に詳しい時代小説作家「子母澤寛」の「行きゆきて峠あり(上下)」(現在書籍版は品切)という榎本武揚を主人公とした作品に、ほぼそのまま使われたことがありました。ここでは子母澤寛にならって「熊吉翁語り残し」として紹介します。

 私自身は郷土史家「茂木治」さんの「資料箱館戦争5」の六百四十二ページの記述によりこの連載のことを知りました。この連載には箱館戦争についての記述はほとんどなく、そのため今まであまり注目されてなかったようです。この時期の函館毎日新聞も、茂木さんの「資料箱館戦争」も函館市立中央図書館の2階(開架)で閲覧することが可能です。

「日本及日本人」は今でいうと文芸春秋のような雑誌ではなかったかと推測しますが、その当時、熊吉翁の近くでこれを購読している人は少なかったでしょう。函館毎日新聞の方は、回りに読者がたくさんいたに違いありません。それで、函館碧血碑話の方は、は雷晏らいあん氏が話を面白くするために「盛った」部分があるのではないかと私は推測しています。

 函館毎日の記者も脱線したり熊吉翁の話を必要以上に漢文調にしたりしてはいますが、翁の話を馬鹿馬鹿しい部分を含めて比較的そのまま文章にしているという感じを受けます。伝えられる箱館戦争後の遺体の収容については、熊吉さんが若いころに衝動的・暴力的な行動があったような人物であったからこそ、可能になったのではないかと私は思っています。

 熊吉さん関係の資料では『函館蕎麦史』も詳しく、ほかにお孫さん(徳蔵さん)からの聞き書きが「五稜郭物語」(北海道新聞社編、記者は川崎彰彦)に収録されており、またひ孫の夫である成田千秋さんは、「侠 柳川熊吉」という小説を2002年に自費出版しています。(いずれも函館市立中央図書館で閲覧可能)

 当会事務局長の木村さんの「ある巡査の書簡から」によれば熊吉さんは「土方歳三の人夫をやっていた」ということですが、人夫には「段別に割り充てて、公役に使う民、いにしえの庸役の夫なり(言海 明治二十二年刊)」という意味があるようですから、榎本政権下では地元をよく知る者としていろいろな役割を担っていたものと推測されます。語り残しを読む限り、熊吉さん本人は遺体の収容よりは榎本軍と官軍の間にたって連絡調整のために働いたことを名誉なことと考えているのではないかと私は思っています。


「柳川熊吉翁」語り残し(一~二十)を横書きで読む

「柳川熊吉翁」語り残し(一~二十)を縦書き(PDF版)で読む

 ★函館市立中央図書館の所蔵資料からデジタル化しました。

 ★新聞掲載時の原文を、新漢字、新かなづかいに変えて復刻しました。特殊な読みの漢字もルビをつけて生かすようにしていますが、誤読があるかもしれません。

 ★百十年前の新聞記事ですので、現代では使わないような人権上の配慮のない表現や描写が出てきますが歴史的読み物としてご理解ください。

 ★特に第二回の「吉原の大火」には凄惨な描写があります。苦手な方はそこを飛ばしてお読みください。


柳川熊吉やながはくまきち

 以下は、熊吉さんが亡くなった直後に出た「北海道人名辞書 函館区」(函館市中央図書館所蔵)に掲載されていた小伝で、文語体の調子が良いものです。


熊吉は侠客きょうかくなり。江戸花川戸の人。文政八年八月果実商兼料理業野村鉄次郎の長男に生る。十二三歳の頃より料理の法を見習ひ、修行数年の後、既に一人前の料理人となる。

長じて家業をぐを欲せず幕末の侠客新門辰五郎の乾児こぶんとなり後蝦夷地に志し箱館奉行について江戸を出発す。途中一行と別れ仙台南部地方を遍歴し幾多の困難を経てようやく函館に渡る時に安政三年にして熊吉年三十二なり。居を函館山の上にぼくし諸国の浪人及び土地の壮者を糾合して忽ち数多の乾児こぶんを集む。於爰ここにおいて親分熊吉の名漸く世に顕はる。後箱館奉行に諮り消防組を組織し自ら組頭と為りて壮丁そうていを訓練す。柳川の姓は其その当時箱館奉行より与えられしものなり。

明治の初年箱館戦争に際し熊吉消防夫の壮丁を率ゐて町内の火の元を警備し且つ官軍と賊軍の間を往来して意思の疎通に努む。榎本釜次郎く熊吉の義侠を愛す。

当時賊軍の死骸及び遺物ははばかるところありてかえりみる者なし。熊吉これを遺憾いかんとなし自ら部下の壮丁を率ゐ危険を冒して死骸並びに遺物を収拾し之れを谷地頭の丘阜きゅうふに埋葬す。之れを以て官軍偶々たまたま熊吉の行動をあやしみ賊軍に通ぜしものと疑ひ熊吉を山ノ上町に包囲し捕へて獄に投ず。乱平定後出獄を許さる。

後年熊吉率先して同志と謀り谷地頭の死骸埋葬地に戦死者の碑を建て名付けて碧血碑といふ。熊吉又此時またこのときより居を谷地頭に移して料理店を開き柳川と称す。老後養子富次郎に家督を譲り爾後碧血碑を守り戦死者の霊を弔祭ちょうさいするを以て任となす。大正二年春函館実行寺じつぎょうじの住職望月日謙熊吉の功績を不朽に伝へんとし、資を有志に求め碧血碑のかたわらに熊吉の碑を建立す。此年十二月熊吉老病を以て歿す。享年八十有九。

熊吉容貌魁偉任侠の精神に富み少壮時代賭博其他とばくそのほかの事にて決死の喧嘩けんかに加はり又屡々またしばしば獄に投ぜられしが明治維新後は身を持する事謹厳よく町内の争闘口論の仲裁をなし一代の侠客としてあらはれたり。

北海道人名辞書 函館区 や、ゆ之部 大正三年刊行


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(函館碧血会・事務局)

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