Last Updated Date 2021.6.15

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【6月の碧血碑 2021年6月10日撮影】

【お知らせ】

令和三年の碧血碑前慰霊祭は一般向けの呼びかけをせず、役員のみで行うことになりました。

6月26日、柳川熊吉の義挙をテーマにした「五稜郭始末記」の浪曲会が千代台の青年センターであり、函館碧血会も協力します。詳細はこちらに。



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R.02.07.01記述

「函館碧血会」について

 函館碧血会

 「函館碧血会」とは、明治八年(一八七五)の碧血碑が建てられた時から続く非常に古い歴史を持つ団体です。「函館碧血会」が作られたそもそもの原因は、「箱館戦争」でした。

 明治元年(一八六八)に、日本の政治体制を大きく変えた戊辰戦争が始まりでした。「戊辰(ぼしん)」とは、干支による年号のことで、明治元年のことです。その戊辰戦争の中に京都・鳥羽伏見の戦いや東北戦争、北越戦争などのそれぞれの地域での戦いがありました。その一つで、最後の戦いが「箱館戦争」でした。

 戦いは、新政府軍と旧幕府軍の戦いでした。江戸幕府の将軍徳川慶喜が新しい政治体制を作るために「大政を奉還」したのですが、幕府の影響を嫌った薩長連合は、クーデターを起こして「戊辰戦争」に引き込んだのでした。平和を望んで「大政奉還」したはずが、いつの間にか新政府軍と戦うこととなり、旧幕府軍は「賊軍」にされてしまいます。そしてついに江戸城を明け渡すことになるのですが、その時の条件で、徳川家と旗本家臣団の領地を召し上げられたため、徳川家臣団は路頭に迷ってしまいました。

 これを品川沖で見ていた榎本武揚は、新政府に対して旧徳川家臣団の救済政策として「エゾ地の開拓と防備を徳川家臣団に行なわせるように」要望しますが、新政府側はこれを全く無視します。

 榎本は新政府からの返事を待ち続けますが、いつまで経っても返答は来ませんでした。ついに榎本は軍艦八艘を引き連れて、品川から北国エゾ地の箱館に移動することとしました。エゾ地でも榎本は、戦争を避けて新政府側と松前藩に協力を求めますが、双方から挑発されやむなく戦うこととなったのです。明治元年の戦いでは、榎本軍の戦力が勝っていたため勝つことが出来ていました。しかし、翌明治二年(一八六九)の戦いでは、新政府軍は榎本軍の三倍近い戦力をもって攻めてきました。

 箱館戦争での最後の戦いは箱館の市街戦でした。激しい戦闘の末、負けた側の榎本軍の遺体は収容されませんでした。新政府軍は、自軍の犠牲者は招魂社に手厚く祀りましたが、旧幕府軍の遺体は路傍に放置したままでした。これを当時の箱館市民が自主的に収容して埋葬したのです。「亡骸に敵味方はない」との人道的な考えからだといいます。

 新政府は徳川幕府から力づくで政権を奪い、会津藩など自らの意に沿わない地方勢力を徹底して潰し、士族の生活救済を顧みない姿勢でした。強い政権を作ろうとしたのでしょうが、偏った強権的な政策の反動は後に士族反乱として現れてきます。振り返れば、戊辰戦争に至る前に平和的に新政体に移行する動きはあったのです。私たちはこの歴史をしっかりと見つめておくことが大切だと思っています。

 榎本ら旧幕府軍の幹部たちがこの事を知ったのは、戦争後東京で投獄され、三年後に釈放されてからでした。榎本たち旧幕府軍幹部たちはこれに感動し、函館の地に慰霊のための「碧血碑」を建てました。明治八年(一八七五)のことです。

 以来函館市民は、明治から大正、昭和、平成、令和へと、百四十五年間にわたり「函館碧血会」は碧血碑の前で慰霊祭を行って、箱館戦争最後の地に眠る戦没者たちの霊を慰めて来たのです。こうした函館市民の心意気は、同時代の高松凌雲による国際的な博愛主義にも通じるものです。私たち「函館碧血会」は、これからも「碧血碑」の意義について考えながら、箱館戦争で犠牲となった旧幕府軍の慰霊を行っていくこととしています。


◆函館碧血会は北原善通会長、木村裕俊事務局長をはじめとする役員会によって運営されております。

◆本WEBサイトは、木村事務局長が書いた文章をもとにして事務局員の福島誠が編集しております。

◆質問や感想、入会申込などは以下のメールアドレス sewanin(at)hekketsu.org  あてに(at)を@に変えたうえで 送りください。

(函館碧血会・事務局)

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